2023年6月7日 久しぶりに羽田空港から飛行機で岡山空港につき倉敷市の観光をしました。 倉敷川を中心とする一帯は早くから干拓による田地の開発が進められていました。その後、慶長5年(1600年)に備中国奉行領となり、倉敷は松山藩の玄関港として上方への物資の輸送中継地となります。やがて寛永19年(1642年)に代官所が置かれ、天領となりました。以後、幕府の保護や周辺の豊かな産物を背景に、物資の集積地として成長し、倉敷美観地区周辺一帯はさらに活気を帯びて行きました。当時の倉敷川は潮の干満を利用して多くの船が航行しました。倉敷は物資輸送の集積地として、川沿いには、塗屋造りの町家や白壁土蔵造りを中心とする町並みが形成されていきます。 本町から東町へと続く通りは、かつて倉敷の中心部と早島を結ぶ街道筋で、倉敷川沿いより先に町となりました。かつては箪笥屋、桶屋など職人達が軒を連ねていたといい、現在も格子戸の宿、杉玉が軒に下げられた造り酒屋、阿知神社へと続く参道等々、昔のままのような風景に出会うことができます。 大原美術館に行きました。入館料が最近2000円に値上がりしていましたので諦めました。 阿智神社に行きました。『日本書紀』「応神天皇二十(二九一)年九月条」に「倭漢直の祖阿知使主、其の子都加使主、並びに己が党類十七県を率いて、来帰けり」とあり、阿知使主の一族が渡来した事が記されており、この一族の一部が当地周辺に定住した事が「阿知」の地名発祥由来と伝えられております。境内には磐境・磐座(我が国固有の古代祭祀遺跡)と呼ばれる多くの石組が点在しており、中でも本殿西側にある鶴亀の磐境は古代庭園とも呼ばれ、日本固有の信仰と陰陽思想などの大陸文化が融合した神仙蓬莱様式という形から、彼らの手により築き祀られたのではないかとも言われております。 倉敷観光WEB |