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2024年11月23日 久しぶりに駒場祭に行き、16:50開演のブラアカと紡ぐ海の物語を聞かせてもらいました。なかなか良い演奏で心が洗われる思いがしました。それで翌日も9:50開演の正門広場のブラアカ路上ライブを堪能できました。そのあとは昔に随分と通った駒場駅周辺を散策しました。まず行ったのは駒場公園です。駒場公園は旧前田侯爵邸を目黒区が管理する駒場公園となり無料公開していました。
明治17年、華族令発布により、前田家は侯爵の爵位を授与されて、百万石大名の威信を保ったが、隣接して建てられた東京帝国大学の敷地拡張のため、本郷の地も駒場の東京帝国大学農学部実習地4万坪と交換されることになった。こうして、はからずも加賀百万石大名の子孫の屋敷が、目黒は駒場の地に出現することとなった。
昭和4年から5年にかけて、前田家16代当主前田利為(としなり)侯爵は、駒場の約1万坪の敷地に、地上3階地下1階建ての洋館と、これを渡り廊下で結んだ2階建て純日本風の和館とを相次いで竣工させた。マツ・ケヤキ・イチョウ・シラカシなどうっそうと茂る駒場野の林をそのまま生かした奥庭や芝生の広場。使用人も100人以上いたという前田侯爵邸は、当時東洋一の大邸宅と人々の目を見張らせたものだった。しかし、栄華も永くは続かなかった。昭和16年に第2次世界大戦が勃発すると、翌年には、ボルネオ方面軍司令官として従軍中の利為(としなり)侯が、不慮の死を遂げてしまったのだ。夫人をはじめ一家は他へ移り、戦局がますます厳しくなる中で、昭和19年、邸内の一部を譲り受け、中島飛行機の本社が疎開してきた。そして、終戦。前田邸は、昭和20年9月、連合軍に接収され、第5空軍司令官ホワイトヘッドの官邸となり、続いて26年4月からは、極東総司令官リッジウェイの官邸として使用された。その後、富士産業(旧中島飛行機)の手を経て、昭和31年に和館及び一部の土地が国の所有となり、翌年、ようやく接収が解除となったのである。昭和38年、旧前田邸に公園を建設することが決定し、翌年、洋館を東京都が買収、国有地については、東京都に無償貸与され、都はさらに民有地を買い足して、昭和42年7月、旧前田邸は、東京都立駒場公園として生まれ変わった。その後、昭和50年に公園の管理が目黒区へ移管されて現在に至る。
この日はさらに駒場公園を散策してから駒場野公園に行きました。この付近一帯は明治期には駒場農学校(後の東京帝国大学農学部や東京教育大学農学部)があったところで、駒場野公園付近は東京教育大学農学部が長らくあったところで盛んに農業教育が行われていたところであった。1978年に東京教育大学は閉学され筑波大学に機能を譲り、つくば市に移転した。跡地の一角が公園として整備され1986年に目黒区立駒場野公園として開園し現在に至っている。当地にあった駒場農学校は札幌農学校と共に日本における近代農学の発展を担った重要な学校であり、駒場野公園の一角には近代期における日本での肥料や土壌研究に関して大いに功績を残したお雇い外国人・オスカル・ケルネルが駒場農学校で教鞭をとっていた時に使用していた実習用の田んぼが現在でも維持・保存されており「ケルネル田圃」として知られている。(維持・管理は近接してある筑波大学附属駒場中学校・高等学校の生徒たちが行っている)
この日はさらに目黒川の支流で烏丸川が暗渠になっていて公園として整備されている道路を池尻、三宿、太子堂、三軒茶屋と散策し、秋空に恵まれて楽しい秋旅でした。
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