最近はよく遊んでいる。しかし、高齢者が日々の時間を過ごすことを遊ぶとは言わないらしい。何となく日課があって、それにそった生活をすることは、何かしているとしか言えないようだ。この何となく定めたはずの日課は元気ですごしているうちは長持ちして、老人性凝り性で続けようとするのが日課である。このような日課から外れて別の行動をすることを老人の場合は遊んでいるというらしい。 若い世代が言っている遊びとは、一般的には収入のない仕事をすること、あるは散財しながら時間を過ごすことを言うようだ。しかし老後を過ごす人々にとっては、この定義でいうと毎日を遊びで過ごしていることになるが、本人たちはそうは思わないで、先に言及したように何となく決めている日課を逸脱した行動をすることを遊ぶといっているようだ。もともと退職して年金暮らしであれば収入のない仕事をしても、先に定めた日課の一環であることになる。老人が出歩いて、よく遊びに行くということは、それが日課のうちになり、散財することだけが遊びになる。老人たちにしてみれば、収入が少ないことを考えて、遊びは少なくして倹約した生活したがるようだ。だから老人たちは皆が凡人であり、遊びに熱中している老人であれば、その方は天才にと言わざるを得ない。 大方が凡人である老人の生活は、何となく定めた日課を達成して過ごすことであり、その日の成果であり、傍目からみれば成果などとはいえたものではない。だからと言って成果がない訳ではない。日記を書いたりして、何等かのことをやっている。だから無為に過ごしていることにはならないが、しいて言えば大きな成果がないし、毎日が兼ねて予想した通りに過ぎてゆく。時間を束縛されているのではないのから、自由に自分の時間があるのだから文句の言いようのない生活をしていることになる。 毎日の運動を欠かせないように過ごしている。これは筋力を増やし毛細血管の血流を増やそうとする試みです。なるべく外出の機会を作るようにしているのも社会との接触を保とうとする試みです。記憶を整理しようと作文したり、記録を整理してホームページやツイッター、ブロッグに残すようにしている。毎日の朝食と夕食も自分で作っているが、これは高齢者の仕事であると考えて、少しはまだ若い他の人への貢献もするべきかと心掛けている。なるべく最近では流行語になっているポジティブ エイジング(Positive eging)を心掛けているが、こういったことを継続することが大事とは思っているが、これがいつまで続けるのか果てがない。 これから何をしたいかと考えるに、まず歳を考える。やり始めたからには中途で終わりたくないし、残る時間が多くはないことを考えると無駄にはしたくはないが、だからと言って選択肢は多くはない。だいたい70歳を過ぎてから人生を考えるということが不謹慎であり、せめて健康に老後を楽しく、娶った妻を愛おしんで幸せな余生をつつがなく過ごすのが良いというものであろう。しかし、それは余生があと10年ほどの場合であって、90歳過ぎまで生きるとすれば、まだまだ世の中に残って活躍する意義はある。それにはまだ若い人たちとの交流を大事にして、引き込まず、意固地にならず、威張らずに過ごして、自分を前面に出すような生活態度は避けるべきかと思っている。著名人で実績があり、人生を語って残せるような履歴を残した人ならば、周囲の人が後押しして、しかるべき余生環境を提供してくれる、あるいはしかるべき居場所を自分で確保することもできようが凡人の老後ではそれはかなうまい。凡人であれば本来は早めに消えるのが社会のためであると思うのであるが、さてまだまだと思いつつ、さてこれから何をして世に残そうかと考えるのも凡人であるからだろう。 最近になってようやく整理してみたら使える金が2000万円ほどあることが分かった。子供たちに分与した金は使えない、妻が持っている金は絶対に分けてくれないだろう。不動産に投資した金は子供たちが相続するものと当てにしている。してみると個人的に蓄財したのが上記の金額である。まず病気もするだろし葬式代も必要だろうから、わずかであっても生命保険には入っておかねばなるまい。その後の生活資金を残し、この金をどうやったらもう少し増やせるかがここ数年の課題である。増えれば手元資金が豊富になり余生の考え方も変わろうというものだが、さてさて今までの人生の蘊蓄を資して考えてみたい。まずはこの金額が平均的な余生にしては多いか少ないかであるが、けっして多いとは思えないが、仕方がないとしか言えない。サラリーマン生活約40年で得た稼ぎは子供2人との生活費と持ち家の購入とローンの支払いで使ってしまい、今は年金暮らしで明け暮れている。年金は良くできたもので、それこそ贅沢はできないが細々と余生の日々を暮らしてゆくに相当する金額であり、贅沢しようとすれば積立金を取り崩してゆくより他はない。人生をもう少し上手に振舞えば子供たちが自律して離れていった後からは工夫できたのかも知れなかったが、反省してみても資金がどう出て行ったか未だに分からない。人生全て結果だけである、経緯がどうあれ、履歴がどうあれ、前向きにこれからを考えてゆくしかないだろう。妻や家族の幸せも想いたい、子供たちの行く末も考えたい、孫たちの成長も祈りたいなどと思いながらも自分の古稀を過ぎた余生の平安を願っている。 この歳になって何ができるかを考えてみた。 芸術に係るものはまずこの歳になると不可能だろう。芸術とは絵画、彫刻、音楽、作曲、芸能、ダンス、陶芸、三味線などは才能がないから今までやっていないことは確かだが、やったとしてもうまくいかないとよそ出来たことも確かだった。芸術とは歴史があり評価のされ方は古よりの評価を鑑みて、更には評価の根拠を経歴だけでなく何方の指導で成されたかが考慮される。したがって70歳を過ぎた者が始めたとしても評価する方々も困るだろうが、結果は相互の経験者によるもとすれば忖度するものでもあるまい。スキーのバッジテストについて学んだことがある。上手な人が階級を上げられるのはもちろんのことであるが、毎年スキー連盟では、この年の滑り方はこれといった流行の滑りを決め、これをスキースクールのインストラクターから学んでいないと識別点で落伍する仕組みであるようだ。芸術を学んで個性を生かした才能を発揮する余地は無いことになる。 ここ数年苛立たしく、凡人らしい思いをしながら過ごしてしているが友人のSさんからジャネーの法則を教えてもらった。私は同期会の幹事などをしている時から枕詞に以下のような文書を使っていました。 「また今年も同期会のご連絡です。この歳になると時間の過ぎるのが早く思えるようになり、何かいろいろとやっているようですが、今ひとつ満足できない昨今ですが、皆さまはお元気にお過ごしのことと思います。」 この感覚を説明しているのが心理学者のジャネーノ法則なのです。 ジャネーの法則とは、主観的に記憶される年月の長さは年少者にはより長く、年長者にはより短く評価されるという。簡単に言えば時間の心理的長さは年齢の逆数に比例すると主張している。 例えば、50歳の人間にとって1年の長さは人生の50分の1ほどであるが、5歳の人間にとっては5分の1に相当する。よって、50歳の人間にとっての10年間は5歳の人間にとっての1年間に当たり、5歳の人間の1日が50歳の人間の10日に当たることになる。なお、この法則については、現代の心理学では扱っていない。即ちデータに基づく究明がされてはいないことになる。 人の認識は5歳の頃に急激に発達し、老境に至るとアルツハイマーを発症するがごとく、知的活動はしていても発展は少なく記憶にも残りづらいということか。何となく身に染みる思いがするが、少なくとも個人の生活の記録(デジタルアーカイブとしてSNSやホームページに掲載したもの)からすると多くの成果を上げているようだ。人生の行動と記憶の相関があるか調べてみる必要がありそうだと思っている。 |