ナイスシニア(超高齢者)とは何をなすべきか、何を現世に残すべきか、何をしたら優しい世代と思われるかなどと考えてみました。 ナイスシニアの世代になると無常観に親しむことになります。昔は人生50年でしたので、50歳を過ぎる頃になると此の後の人生は何時に消滅すかも知れない、あらゆるものが移り変わり、しばらくも同じ状態に留まることのないという無常観になりました。しかし現代はインターネットの時代ですので、全ての記録や思い出はデジタルアーカイブとして再生可能な状態にあります。 その意味では定年が過ぎ、古稀近くになっても世俗の方は無常観にさいなまれることはなくなっています。何時か得度した在家の僧侶にでも現代での無常観とは何ぞやと問いただしてみたいとも思っています。それがナイスシニアの世代になると再び無常観に何となく親しむことになるのは何故だろうか。友人が神様に帰依したと連絡をもらったことがあるし、浄土真宗のお寺に通って説話を聞いている方もいるし、得度して京都に移り住み寺巡りをして余生を過ごす方もいるがいずれも無常を感じているに違いあるまい。一方では定年になり、子育ても終わったので生命保険に入るのは意味がないとして解約はしたが、終焉の時に子供たち迷惑をかけたくないとの思いから少額の養老保険に入った者もいる。聞いてみると最近の養老保険は90歳までに積み立てが終了するが、それからも保障は継続して、亡くなった時に満額が相続者に支払われるのだそうだ。まさに相続金の残し方の手本のようである。このような現実味のあるのが現代の無常観かなと思っている。ナイスシニアが思うことを書いてみると、さほどのことは表現できず物足りたい思いもするが、孤独とは、修行とは、そして高度情報社会とは、についてしたためたつもりでいます。 この散文は、現状の社会に起っている様々なよしなしごとについて、シニアをも過ぎつつある隠棲者の思いをしたためています。筋書がある訳ではなく、根拠はあるのかと問い詰められれば心苦しいところもある。思いついたままに、人生の反省を含めてしたためてみると、そこはかとなく思いが湧き出でてきて若くて、いささかは知力の勝っていた頃は、いともたやすく過ぎてしまったのかと悩ましくなる。さればシニア世代の余生とは、現世の無常とは、老後の快楽とはなどを思ってみるのも良いかと思っています。 |