体の音を聞く

妙義山 。

最近は体調がいい。何故いいかと体に相談して何となくまとめてみると、
�� 心理的ストレスがない(仕事をしていないが、外出し仲間付き合いがある。)
�� 行動が計画的である(定年後の生活パターンが決まってきたので、時間管理ができている。)
�� 良く運動している(計画的にグループ活動に参加して、自己管理もできている。)
このように概観してみると、心の管理、社会的参加、個人健康管理の3要素にまとまっていることが分かって自信が持ててきた。
定年後の生活は、それ以前の生活とは随分と変わったようだというか、変えた方が良いようだ。定年前の現役の頃は会社勤めが優先し、個人の生活は何方かというと隷属的で、しいて言えば2重構造的な時間の使い方をしていたように思っている。2つの構造社会がどちらも優先で、どちらも失敗の許されない拘束状態にあったのでストレスがあったのだろう。定年後の生活では、第2の職場にあっても、既に人生との格闘期間は過ぎてしまい仕事への優先度は格段に落ち、逆にそれまでの人生への反省から個人生活を大事にしたいとの思いが増してくる。それが生活のストレスを軽減させたのだと思われる。

さて定年後の生活を始めてみると、個人の生活を優先していいのだと思ってみても、社会に参加していなければ何をやっても余暇があるだけでフィードバックがないので面白くもない。現代の老後の生活では個人的に孤立していては、感情的になるだけで不満が蓄積されてしまうようだ。それらのはけ口としていろいろの社会グループに参加できるような素養が必要になるだろう。
しかし、老後の体調は一定でなく、いつ病に襲われるのかが分からない。最近は遺伝子解析で確率的に、さらに老後の健康確率が予想できるようになっているようだが、それはあくまでの遺伝子要因の病弊だけであり、生後の生活習慣による病気には関連していない。しかし生活習慣病に関しては、最近の保健指導である程度は指導が繰り返されて、マスコミが協力して宣伝・広報していることもあり、若年層からして健康増進には意識しているし、世の中での話題も豊富になっている。私も70歳の時に脊柱管狭窄症を患った。患った時点では足腰の痛みで起き上がるのに痛みがあり、歩行中に痛みがあり、寝ていても痛みがありました。医者に行っても病名を言うだけで積極的に直すならば手術しかないというだけで頼りにならない。しかし世の中は病気に関してもインターネットを初めとした情報獲得手段が身近にあるので、各自の努力で早めの手当てが可能になっている。このような状況を踏まえ普段から老後の疾病について勉強し、緊急を要する発症時にすぐに対処できるようにしておくのも良いだろうし、またそのような生活指針にしているつもりです。

体調がいいのか、悪いのかといつも体の音を聞くのが良いようだ。即ち瞑想により体の隅々に問いかけてどんな様子かを聞いてみるのです。そうすれば調子のよくない臓器は応答し、その日の状況を語ってくれるものです。
それでは瞑想法とは、どのようにするのかを調べてみました。

瞑想とはウィキペディア等によれば、伝統的により高度な意識状態あるいは高度の健康とされる状態を引き出すため、精神プロセスを整えることを目的とする注意の意識訓練のことである。瞑想の具体的効用として、感情の制御、集中力の向上、気分の改善といった日常的なことから、自己洞察や対象認知、知恵の発現、更には悟り・解脱の完成まで広く知られる。宗教や宗派、あるいは瞑想道場により瞑想対象や技術がことなるようです。

瞑想法は、一つの対象を定めた上で、その対象に集中を定めていく手法と、対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する手法があります。仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられています。大乗仏教では深層心理が八識に分類されており、瞑想はそこへ到達するための方法とされています。上座部仏教(小乗仏教)では心の変化を九段階に体系化しており、仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うと解脱が可能とされています。
瞑想はセラピーと言われることもあるが、臨床的な病の治療を目的とした精神療法ではなく、自己超越を促進する方法のひとつであり、高次の意識の出現、発達、成長を促進する手法でもあります。精神療法の補助手段としての可能性もありますが、心が整った状態を指すのか、それとも心を整えようとする行為を指すのかにより対応が異なってきます。瞑想にいたる課程もまた、瞑想になります。瞑想とは状態であると考えるならば、瞑想とは外界からの刺激を遮断して、内界に意識を向ける営みとなります。瞑想の深度も重要な尺度です。つまり、ラジオ体操の最後の深呼吸は、瞑想の入口であったとしても、瞑想とは呼べないのか。問題を解決しようとして集中することを活動的瞑想というが、心に雑念が浮かばず、精神が一定の静寂を得た境地を瞑想とよびます。

ヨーガとは
精神的な身体技法がインドのヨーガです。ヨーガの目的は輪廻からの解脱、つまり正しく死んで二度と生まれ変わってこないこととされる。ヨーガの目的とされる究極の境地は解脱とされる。解脱とは日常的な精神活動を停止させ、欲望や時間を超越し、感覚や欲望の主体である自我の働きを消し去ることを意味する。性的なエネルギーを上昇させ、昇華させ、性を聖に転化させるというのがヨーガの基本的な考えです。
ヨーガは8つの段階においては、�Г離妊�ヤーナの状態を瞑想と位置付けている。
狭義の瞑想から、広義の瞑想まで、瞑想を考える際にはどの視点から瞑想を捉えるかによって、多様な解釈が可能となります。�.筌沺紛慍�)、�▲縫筌沺粉�戒)、��アーサナ(座法・体位)、�ぅ廛蕁璽福璽筺璽沺文撞柬 法↓ゥ廛薀謄�ヤーハーラ(制感)、�Ε澄璽薀福次塀乎罅法↓Д妊�ヤーナ(瞑想)、�┘汽沺璽妊�(三昧・禅定)
�,離筌泙篭慍�と訳されるが、これはたとえば「暴力をふるわない」「嘘をつかない」といった内容であり、�△離縫筌泙隆儔�とは「清潔を保つ」「祈る」といったことである。この二つはヨーガの心構えとでもいうべき項目となっている。��のアーサナは座法と訳されるが、これがいわゆるヨーガのポーズである。�い離廛蕁璽福璽筺璽泙聾撞柬 �この2つを特に強調したものが、スクールやスポーツジムで学ばせるヨーガである。�ァ銑┐蓮△い困譴眇瓦鮗臑里箸靴森猝椶任△蝓∧燭燭�言えば瞑想の程度の違いとなる。 感覚が研ぎすまされて集中し、瞑想が徐々に深まる課程を段階的に示したものと考えられる。最終的な段階は�┐離汽沺璽妊�であり、これは三昧(ざんまい)や禅定(ぜんじょう)と訳される。三昧はサマーディというサンスクリット語の発音を漢字に当てはめた音訳であるため、漢字自体に意味はない。禅定とはサマーディの意訳であり、これがヨーガの最終目的でもあり、精神が究極的に統一された状態を指している。そこは心がまったくの静寂に包まれ、雑念が完全に除去され、解脱とされる境地となる。

座禅とは
「ただ坐る」ことを指している。坐禅は、何かを求めるのではなく、求めようとする心によって歪んで見えてしまう世界の実相を、正しくありのままに受けとろうとする営みである。だから、坐禅をする目的は、何も求めないことにほかならない。しかし何も求めないことを求めては、それは一つの求めになってしまうから、求めないこともまた求めない。「無」と表現してしまうのは安易だが、物事をありのままに見るがために、心をニュートラルな状態に保ちたいのであって、何かを得たいのではない。死を、ただ「死」とみる。「怖い」「嫌だ」「逃れたい」という思いから死を見れば、死は怖くて嫌で逃れたいものになる。物事をありのままに見るとは、それらの思いから離れて、死を「ただの死」として観ることをいう。

禅宗には、曹洞宗、臨済宗、黄壁宗の三つの宗派があり、それぞれの宗派で座禅のやり⽅は違いますが、基本的な姿勢や呼吸の仕方は同じで、
�� 調身:姿勢を整えること、��調息:呼吸を整えること、�� 調心:心のあり方を整えること
身体と呼吸、意識を整えることで、安らかな気持ちになることが座禅の基本です。坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法門なり。菩提を究尽するの修証なりと道元は説いています。習禅とは精神を集中したりして自分の意識を高め、悟りに到達しようと努⼒することです。座禅はそのような習禅ではなく安楽である、つまり、座禅をする目的は、心安らかに身体も楽にすることだと道元は説いたのです。正しい楽な姿勢ですわり、呼吸を整え、心の持ち⽅を整えることで、体と⼼が安らかになるための基本が、調身、調息、調心なのです。

マインドフルネスとは
英語には、「気づかう」「心配りをする」という意味の「マインドフル(mindful)」という形容詞があります。マインドフルネスの概念では、マインドフルとは、良い・悪いなどの価値判断をすることなく、完全に今の瞬間に注意を向けている心の状態」を指します。
ヨーガや坐禅をベースにしたストレス緩和法であり、今、五感で感じられる現実だけに意識を向け、負の感情を生じさせない、深い精神状態を得ようとするのではなく、瞑想による制感・集中といった効果を実生活に応用することが目的の瞑想技法である。臨床実験によりその効果が科学的に実証されたことで、心理学や医学に限らず、ビジネス、スポーツ、教育、福祉などの諸分野で注目されている。
�“獣任鬚靴覆�
自分の今の状態がどのようなものであっても、評価や判断を一切せず、完全に受け入れる気持ちでその状態をありのままに観察します。私たちは普段、自分の状態や出来事を「良い・悪い」または「好き・嫌い」などの判断に基づいて評価しがちです。この結果、客観的な視点を持つことが難しくなり、不安や偏見などの感情にかられて機械的に反応してしまうことも少なくありません。 自分の今の状態を判断せずに受け入れ、ありのままでいることができるようになると、出来事や自分の状態をはっきりと見ることができるようになり、適切に対応できるようになると考えられています。
�∈�の瞬間に意識を向ける
マインドフルネスの概念では、私たちは普段、身の周りの出来事などに対して自動的に反応したり、過去や未来のことを考えたりして、多くの注意力を浪費していると考えます。 「今この瞬間」に意識を向けると、外部の出来事に気をとられなくなるため心が穏やかになり、洞察力が高まるとされます。また、浪費していた注意力を集めて利用することにより、以前なら不安や恐怖に襲われていた状況においても、より冷静に対処できるようになると考えられています。 最近は体調がいい。何故いいかと体に相談して何となくまとめてみると、
�� 心理的ストレスがない(仕事をしていないが、外出し仲間付き合いがある。)
�� 行動が計画的である(定年後の生活パターンが決まってきたので、時間管理ができている。)
�� 良く運動している(計画的にグループ活動に参加して、自己管理もできている。)
このように概観してみると、心の管理、社会的参加、個人健康管理の3要素にまとまっていることが分かって自信が持ててきた。 定年後の生活は、それ以前の生活とは随分と変わったようだというか、変えた方が良いようだ。
定年前の現役の頃は会社勤めが優先し、個人の生活は何方かというと隷属的で、しいて言えば2重構造的な時間の使い方をしていたように思っている。2つの構造社会がどちらも優先で、どちらも失敗の許されない拘束状態にあったのでストレスがあったのだろう。定年後の生活では、第2の職場にあっても、既に人生との格闘期間は過ぎてしまい仕事への優先度は格段に落ち、逆にそれまでの人生への反省から個人生活を大事にしたいとの思いが増してくる。それが生活のストレスを軽減させたのだと思われる。

さて定年後の生活を始めてみると、個人の生活を優先していいのだと思ってみても、社会に参加していなければ何をやっても余暇があるだけでフィードバックがないので面白くもない。現代の老後の生活では個人的に孤立していては、感情的になるだけで不満が蓄積されてしまうようだ。それらのはけ口としていろいろの社会グループに参加できるような素養が必要になるだろう。
しかし、老後の体調は一定でなく、いつ病に襲われるのかが分からない。最近は遺伝子解析で確率的に、さらに老後の健康確率が予想できるようになっているようだが、それはあくまでの遺伝子要因の病弊だけであり、生後の生活習慣による病気には関連していない。しかし生活習慣病に関しては、最近の保健指導である程度は指導が繰り返されて、マスコミが協力して宣伝・広報していることもあり、若年層からして健康増進には意識しているし、世の中での話題も豊富になっている。私も70歳の時に脊柱管狭窄症を患った。患った時点では足腰の痛みで起き上がるのに痛みがあり、歩行中に痛みがあり、寝ていても痛みがありました。医者に行っても病名を言うだけで積極的に直すならば手術しかないというだけで頼りにならない。しかし世の中は病気に関してもインターネットを初めとして情報核と手段が身近にあるので、各自の努力で早めの手当てが可能になっている。このような状況を踏まえ普段から老後の疾病について勉強し、緊急を要する発症時にすぐに対処できるようにしておくのも良いだろうし、またそのような生活指針にしているつもりです。

体調がいいのか、悪いのかといつも体の音を聞くのが良いようだ。即ち瞑想により体の隅々に問いかけてどんな様子かを聞いてみるのです。そうすれば調子のよくない臓器は応答し、その日の状況を語ってくれるものです。 それでは瞑想法とは、どのようにするのかを調べてみた。

瞑想とはウィキペディア等によれば、伝統的により高度な意識状態あるいは高度の健康とされる状態を引き出すため、精神プロセスを整えることを目的とする注意の意識訓練のことである。瞑想の具体的効用として、感情の制御、集中力の向上、気分の改善といった日常的なことから、自己洞察や対象認知、知恵の発現、更には悟り・解脱の完成まで広く知られる。宗教や宗派、あるいは瞑想道場により瞑想対象や技術がことなるようだ。
瞑想法は、一つの対象を定めた上で、その対象に集中を定めていく手法と、対象を定めずに心に去来する現象を一心に観察する手法がある。仏教における瞑想法では、人間の心が多層的な構造を持っていることを踏まえ意識の深層段階へと到達することを目的とした手法が組み立てられている。大乗仏教では深層心理を八識に分類されて、瞑想はそこへ到達するための方法とされる。上座部仏教(小乗仏教)では心の変化を九段階に体系化しており、仏陀によって説かれた観瞑想の修行を行うと解脱が可能とされている。 瞑想はセラピーと言われることもあるが、臨床的な病の治療を目的とした精神療法ではなく、自己超越を促進する方法のひとつであり、高次の意識の出現、発達、成長を促進する道でもある。精神療法の補助手段としての可能性がある。瞑想というものを考える場合、瞑想をどう定義するかで導き出される答えは異なってくる。心が整った「状態」を指すのか。それとも、心を整えようとする「行為」を指すのか。
瞑想にいたる課程もまた、瞑想になる。瞑想とは状態であると考えるならば、瞑想とは外界からの刺激を遮断して、内界に意識を向ける営みとなるだろう。瞑想の深度も瞑想を考える上では重要となってくる。つまり、ラジオ体操の最後の深呼吸は、瞑想の入口であったとしても、瞑想とは呼べないのか。問題を解決しようとして集中することを活動的瞑想というが、心に雑念が浮かばず、精神が一定の静寂を得た境地を瞑想とよぶのか。

ヨーガとは
精神的な身体技法として、インドのヨーガ(瞑想)がある。ヨーガの目的は輪廻からの解脱、つまり正しく死んで二度と生まれ変わってこないこととされる。ヨーガの目的とされる究極の境地は解脱とされる。解脱とは日常的な精神活動を停止させ、欲望や時間を超越し、感覚や欲望の主体である自我の働きを消し去ることを意味する。性的なエネルギーを上昇させ、昇華させ、性を聖に転化させるというのがヨーガの基本的な考えである。
ヨーガは8つの段階においては、�Г離妊�ヤーナの状態を瞑想と位置付けている。
狭義の瞑想から、広義の瞑想まで、瞑想を考える際にはどの視点から瞑想を捉えるかによって、多様な解釈が可能となる。 �.筌沺紛慍�)、�▲縫筌沺粉�戒)、��アーサナ(座法・体位)、�ぅ廛蕁璽福璽筺璽沺文撞柬 法↓ゥ廛薀謄�ヤーハーラ(制感)、�Ε澄璽薀福次塀乎罅法↓Д妊�ヤーナ(瞑想)、�┘汽沺璽妊�(三昧・禅定)
�,離筌泙篭慍�と訳されるが、これはたとえば「暴力をふるわない」「嘘をつかない」といった内容であり、�△離縫筌泙隆儔�とは「清潔を保つ」「祈る」といったことである。この二つはヨーガの心構えとでもいうべき項目となっている。��のアーサナは座法と訳されるが、これがいわゆるヨーガのポーズである。�い離廛蕁璽福璽筺璽泙聾撞柬 �この2つを特に強調したものが、スクールやスポーツジムで学ばせるヨーガである。�ァ銑┐蓮△い困譴眇瓦鮗臑里箸靴森猝椶任△蝓∧燭燭�言えば瞑想の程度の違いとなる。 感覚が研ぎすまされて集中し、瞑想が徐々に深まる課程を段階的に示したものと考えられる。最終的な段階は�┐離汽沺璽妊�であり、これは三昧(ざんまい)や禅定(ぜんじょう)と訳される。三昧はサマーディというサンスクリット語の発音を漢字に当てはめた音訳であるため、漢字自体に意味はない。禅定とはサマーディの意訳であり、これがヨーガの最終目的でもあり、精神が究極的に統一された状態を指している。そこは心がまったくの静寂に包まれ、雑念が完全に除去され、解脱とされる境地となる。

座禅とは
「ただ坐る」ことを指している。坐禅は、何かを求めるのではなく、求めようとする心によって歪んで見えてしまう世界の実相を、正しくありのままに受けとろうとする営みである。だから、坐禅をする目的は、何も求めないことにほかならない。しかし何も求めないことを求めては、それは一つの求めになってしまうから、求めないこともまた求めない。「無」と表現してしまうのは安易だが、物事をありのままに見るがために、心をニュートラルな状態に保ちたいのであって、何かを得たいのではない。死を、ただ「死」とみる。「怖い」「嫌だ」「逃れたい」という思いから死を見れば、死は怖くて嫌で逃れたいものになる。物事をありのままに見るとは、それらの思いから離れて、死を「ただの死」として観ることをいう。
禅宗には、曹洞宗、臨済宗、黄壁宗の三つの宗派があり、それぞれの宗派で座禅のやり⽅は違いますが、基本的な姿勢や呼吸の仕方は同じで、
�� 調身:姿勢を整えること、��調息:呼吸を整えること、�� 調⼼:⼼のあり⽅を整えること 身体と呼吸、意識を整えることで、安らかな気持ちになることが座禅の基本です。坐禅とは習禅にはあらず。唯これ安楽の法⾨なり。菩提を究尽するの修証なりと道元は説いています。習禅とは精神を集中したりして⾃分の意識を⾼め、悟りに到達しようと努⼒することです。座禅はそのような習禅ではなく安楽である、つまり、座禅をする⽬的は、心安らかに身体も楽にすることだと道元は説いたのです。正しい楽な姿勢ですわり、呼吸を整え、心の持ち⽅を整えることで、体と⼼が安らかになるための基本が、調身、調息、調心なのです。

マインドフルネスとは
英語には、「気づかう」「心配りをする」という意味の「マインドフル(mindful)」という形容詞があります。マインドフルネスの概念では、マインドフルとは、良い・悪いなどの価値判断をすることなく、完全に今の瞬間に注意を向けている心の状態」を指します。 ヨーガや坐禅をベースにしたストレス緩和法であり、今、五感で感じられる現実だけに意識を向け、負の感情を生じさせない、深い精神状態を得ようとするのではなく、瞑想による制感・集中といった効果を実生活に応用することが目的の瞑想技法である。臨床実験によりその効果が科学的に実証されたことで、心理学や医学に限らず、ビジネス、スポーツ、教育、福祉などの諸分野で注目されている。
�“獣任鬚靴覆�
自分の今の状態がどのようなものであっても、評価や判断を一切せず、完全に受け入れる気持ちでその状態をありのままに観察します。私たちは普段、自分の状態や出来事を「良い・悪い」または「好き・嫌い」などの判断に基づいて評価しがちです。この結果、客観的な視点を持つことが難しくなり、不安や偏見などの感情にかられて機械的に反応してしまうことも少なくありません。 自分の今の状態を判断せずに受け入れ、ありのままでいることができるようになると、出来事や自分の状態をはっきりと見ることができるようになり、適切に対応できるようになると考えられています。
�∈�の瞬間に意識を向ける
マインドフルネスの概念では、私たちは普段、身の周りの出来事などに対して自動的に反応したり、過去や未来のことを考えたりして、多くの注意力を浪費していると考えます。 「今この瞬間」に意識を向けると、外部の出来事に気をとられなくなるため心が穏やかになり、洞察力が高まるとされます。また、浪費していた注意力を集めて利用することにより、以前なら不安や恐怖に襲われていた状況においても、より冷静に対処できるようになると考えられています。