最近は4月の初めは桜巡りをしています。東京というところは本当に桜の多いところです。普通は地方の桜の方がツアーで行くときは名跡で通っているが、良く調べて桜見物をしようと思ってみると皇居周辺からして桜の絶えることのない街並みが続いているのが東京です。関東を流れて東京湾にそそぐ川沿いには桜が植えられている、江戸時代からの大名屋敷跡の歴史ある公園には桜がある、明治の頃からの多くの寺社領跡は恩賜公園になっていて桜に満たされている。こんなことで東京が春先は桜に覆われていると分かったのは最近ですが、歴史のある桜咲く寺社が多いと分かったのも最近の事です。歳を経たのでそのようなことに思いが及んだという訳でもあるまいが、それではということで寺社巡りをしてみることにしました。 寺社を見学して歩くとして、漫然と訪問しても趣がないので順序だてることを考えてみました。多くの寺は江戸時代までに建立され現在に至っているようだが、全国では約7万の寺があるという、住職のいない寺もあるので、それを除いても約6万はあるようだ。全国のコンビニの数が約4万店と言われているから、何故このように寺社が多いのかを調べてみたが、分類には以下のような系統があるようです。 ・寺格 寺格とは寺院の宗教的地位、社会的地位が当時の朝廷・幕府により認められた格式であり、また各教団ごとに定められた寺院の格式でもある。江戸時代には本山―末寺の寺格制度が導入され、各宗派の本山を通じて仏教界全体を統制した。明治維新以後の政教分離により、国家による認定がなくなりましたが、各教団ごとに大本山―本山―別格本山―末寺といった寺院等級や日蓮宗のように霊跡寺院・由緒寺院といった寺格制度が残っています。 ・檀家 寺院が檀家の葬祭供養を独裁的に執り行うことを条件に結ばれたのが檀家制度です。回向寺ともいうようです。はるか飛鳥時代では氏族が檀越(だんおつ)となって寺院を建立し、仏教・諸宗派を保護しました。やがて時代が下ると寺院は所領を持つようになり、荘園領主的な側面を持つようになり収入源は布施から荘園収入に変わり、政治的権力・権威を持つようになり檀越に依存しない寺門経営が行われるようになります。しかし応仁の乱以降は荘園制度が崩壊し、新しく登場した宗派は一般民衆を対象とした葬祭関係の比重が増してゆき、祖先崇拝や家という概念と結びつき檀家が形成されるようになります。江戸時代になると幕府はキリスト教禁止令をだし、キリスト教徒でないという証として一般民衆に寺受が行われるようになりました。寺受制度とは全ての住民が特定の寺院に所属して檀家になり、寺院の住職は檀家であるという寺受証文を発行したのです。寺受証文がないと社会的権利を一切受けられなくなることかから、この制度の根幹となった「未寺」の権限は強化されました。すなわち檀家になるということは経済的支援を強いられるということであり、寺院新築改築、講金、本山上納金、常時の参詣、命日法要、盆彼岸の墓参り等の義務を課したのです。一方で家、祖先崇拝の側面が先鋭化され、本来の仏教の教えは形骸化され、葬式仏教へと変革してゆくことになります。明治維新以後の1871年に寺受制度は廃止されますが檀家制度は寺院に先祖の墓があることから存続しており、家人の葬儀や先祖の供養といった葬式仏教に特化されているようです。 ・祈禱寺 江戸時代には先祖の墓があり、先祖の供養を行った回向寺とは別に、無病息災、家内安全、商売繁盛などの個人利益を願う祈祷寺がありました。祈祷寺では定期的な開帳を行い、縁日を行うことで布施を集めるようにしています。江戸時代では。民衆は回向寺で先祖の追善供養を行い家の加護を願い、祈祷寺で自身の現世利益を願ったことになります。庶民は寺受制度で厳格に管理されながら2つの寺院に出入りしていたことになります。 たとえば徳川家の回向寺は浄土宗の増上寺ですが、祈祷寺は当時天台宗だった浅草寺でした。 このように考察してみると、寺巡りをするに当たっては、その寺院の寺格がどの宗派で、本山―末寺なのか、そして本尊とその歴史を理解しておく必要がありそうです。さらにはその寺院が祈祷寺か、回向寺かを知って建立された経緯と開山の僧侶を知っている必要もありそうです。 松平西福寺 台東区蔵前4丁目に建つ浄土宗の小さな寺院です。慶長13年徳川2代将軍秀忠により駿河台に創建され、寛永15年現在の場所に移転したそうです。現在の本堂は平成4年に再建された近代的な建物です。墓地には江戸時代の浮世絵師・勝川春章のお墓があります。 お寺のホームページによると、 「当寺は、東光山良雲院松平西福寺と称し、開基は、天正二年徳川家康公によるものであります。開山上人は、時に永禄三年徳川家康公が今川義元の人質になっていた十九歳の時、桶狭間の戦いで義元が織田信長の急襲で滅ぼされ、家康も敗戦の難を菩提寺の大樹寺に逃れ、時はこれまでと先祖の墓前にて切腹しょうとした時、大樹寺の住持登誉上人と了伝和尚に戒められ自害を留めたと言われています。以後了伝和尚は、家康公にお付きし、信頼いよいよ厚く家康公は、天正二年静岡市に了伝和尚の為に一寺を建立し西福寺と号し上人を迎えました。当時の西福寺は、300石を受け住職は大名待遇を成されていたと言われております。後に家康公の命を受け慶長十三年二代将軍秀忠公が江戸駿河台に松平西福寺を創建し、次いで寛永十五年現在の地に移つりました。当時は境内地が約七千坪有り、西福寺の末寺として七ケ寺の別院、別寺があると共に学寮などが有りました。大正年間に入り東京市都市計画により境内も今の如く狭くなり、また関東大震災及び大東亜戦争と二度の災禍に見舞われ本堂、庫裡他、悉く焼失しましたが、平成四年に新本堂が建立され現在に至っております。」 即ち、我が祖先の檀家寺です。我が祖先は信濃の佐久の郷から東京に出てきて家計を養いましたが、佐久を引き払ったので、浅草の由緒あるお寺の檀家になれたと大変喜んだと聞いています。また新本堂建設の折には檀家に多額の布施を求められ、協力したとも聞いています。 築地本願寺 中央区築地三丁目にある浄土真宗本願寺派の寺院です。京都にある西本願寺の直轄寺院です。2017年に創建400年の節目を迎え、“開かれたお寺”という新たなスタイルを目指し、2017年秋にカフェやブックストア、オフィシャルショップを併設したインフォメーションセンターが開設されました。 お寺のホームページによると、 「1617(元和3)年、第12代宗主准如上人によって、浅草横山町に坊舎が建立されました。1625(寛永2)年、本願寺の別院として江戸幕府から公認されました。しかし、1657(明暦3)年、「明暦の大火」と呼ばれる大火事で坊舎を焼失してしまいました。幕府の区画整理のため、もとの場所への再建がかなわず、替え地として用意されたのが、八丁堀の海上でした。佃島の門徒が中心になり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築きました。それが「築地」という地名の由来となっています。1923(大正12)年、関東大震災にともなう火災により再び本堂を焼失しました。現在の本堂は1934(昭和9)年に再建されたもので、インドの古代仏教建築を模した外観を特徴としながらも、内部は伝統的な真宗寺院の造りとなっています。 和田堀廟所 ;大正12(1923)年9月1日の関東大震災によって、築地本願寺は本堂が類焼するなどの被害を受けました。そのため、築地本願寺境内にあった多数の墓地を移転する必要にせまられ、当時豊多摩郡和田堀の大蔵省管轄陸軍省火薬庫跡約1万2千坪の払い下げをうけ、昭和9(1923)年の冬には、築地本願寺の仮本堂を移築し、ここに和田堀廟所が建立されました。」 即ち、築地本願寺は祈祷寺であってお墓は無いはずなのですが、昨今の経済事情により納骨堂と合同墓が開設されています。合同墓とは管理費はかからず、生前の名前のみが礼拝堂外の回廊に刻銘されるそうです。 深大寺 深大寺は奈良時代に創建された古刹で、浅草の浅草寺に並び地域に密着したご利益のあるお寺とされています。深大寺の隣には神代植物公園があります。 お寺のホーム^ページによると、 「天台宗寺院の深大寺は、浮岳山昌楽院と号します。733年に堂宇を建立、750年に深沙大王像を安置して創建したと伝えられます。江戸時代には寺領50石の御朱印状を拝領、現在天台宗の別格本山に列格、多摩川三十三ケ所観音霊場客番札所、調布七福神の毘沙門天です。」 深大寺の隣には神代植物公園があるのですが、同じ「じんだい」で当て字が違うのは何故か、不思議でした。確かに深大寺は古刹ですので江戸時代では、この調布の周辺は深大寺村と呼ばれていました。その後、明治22年の町村制の施行に伴い、深大寺村、その他の各村が合併して神奈川県北多摩郡神代村になりました。その後、調布飛行場周辺を東京都が買収して防空緑地としました。防空緑地とは空襲被害が発生した時に避難場所、延焼を防ぐ目的のものでした。その後、太平洋戦争終結後、農地解放で約3/4は農地に返上され、残りの土地に神代植物園が開園して、昭和30年に神代村は調布市と合併しましたので、神代町は廃止されています。従って神代植物公園と深大寺は、まったく関係がなく、昔の地名が残ったのでした。 |