清水寺、知恩院と南禅寺
知恩院、大谷祖廟、南禅寺______________ 八坂神社、清水寺、_____________________________
東山エリア
2024年10月22日
京都散策の3日目は知恩院、南禅寺、平安神宮と東山に位置する神社と寺院を巡りました。
四条通りを東に行くと八坂神社の門が見えてきます。境内を一通り散策し南に抜けると祇園町になります。ここには伝統のあるお茶屋、料亭が軒を連ねています。さらに行くと八坂の塔があり、秀吉が建てた高台寺があり、明治維新に功績のあった獅子を祀る霊山観音があり、さらに急な勾配の坂道を行くと清水寺に行きつきます。清水寺を参拝して少し休憩した後は八坂神社の裏手に戻り、大谷祖廟、知恩院、南禅寺と巡り、帰りは琵琶湖疎水に沿って夕闇迫る平安神宮にゆきました。ここは時代祭の終点になっており、観覧席の後かたずけをしていました。
清水寺
清水寺は、京都市東山区清水1丁目にある北法相宗の大本山の寺院。山号は音羽山。本尊は十一面千手観世音菩薩。正式には音羽山清水寺(おとわさんきよみずでら)と号する。もとは法相宗に属していたが、現在は独立して北法相宗を名乗る。
清水寺は法相宗(南都六宗の1つ)系の寺院で、広隆寺、鞍馬寺とともに、平安京遷都以前からの歴史をもつ京都では数少ない寺院の1つである。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び、日本でも有数の観音霊場である。鹿苑寺(金閣寺)、嵐山などと並ぶ京都市内でも有数の観光地として有名であり、古都京都の文化財としてユネスコ世界遺産に登録されている。 宝亀9年(778)に、大和国の興福寺の僧で当時子島寺(奈良県高市郡高取町に現存)で修行していた賢心(後に延鎮と改名)は、夢のお告げで北へ向かい、山城国愛宕郡八坂郷の東山、今の清水寺の地である音羽山に至った。金色の水流を見出した賢心がその源をたどっていくと、そこにはこの山に篭って滝行を行い、千手観音を念じ続けている行叡居士(ぎょうえいこじ)という白衣の修行者がいた。年齢200歳になるという行叡居士は賢心に「私はあなたが来るのを長年待っていた。自分はこれから東国へ旅立つので、後を頼む」といい残して去っていった。行叡は観音の化身であったと悟った賢心は、行叡が残していった霊木に千手観音像を刻み、行叡の旧庵に安置した。これが清水寺の始まりであるという。
その2年後の宝亀11年(780)、鹿を捕えようとして音羽山に入り込んだ坂上田村麻呂(758年 - 811年)は、修行中の賢心に出会った。田村麻呂は妻の高子の病気平癒のため、薬になる鹿の生き血を求めてこの山に来たのであるが、延鎮より殺生の罪を説かれ、観音に帰依して観音像を祀るために自邸を本堂として寄進したという。後に征夷大将軍となり、東国の蝦夷平定を命じられた田村麻呂は、自身が建立した清水寺に平定参拝をしたという。その後、若武者と老僧(観音の使者である毘沙門天と地蔵菩薩の化身)の加勢を得て戦いに勝利し、無事に都に帰ることができた。延暦17年(798年)、田村麻呂は延鎮(御賢心改め)と協力して本堂を大規模に改築し、観音像の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩の像を造り、共に祀ったという。以上の縁起により、清水寺では行叡を元祖、延鎮を開山、田村麻呂を本願と位置づけている。
知恩院
知恩院は、京都市東山区林下町にある浄土宗の総本山の寺院。山号は華頂山(かちょうざん)。本尊は法然上人像(御影堂)および阿弥陀如来像(阿弥陀堂)。開山は法然である。詳名は華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは江戸時代以降である。徳川将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」「ちおいんさん」と呼ばれている。なお他流で門跡に当たる当主・住職を、知恩院では浄土門主(もんす)と呼ぶ。浄土門主・法主推戴委員会により推戴される。 知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(現・岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然房源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。法然は東山の吉水に吉水草庵(吉水中房。現・知恩院御影堂、もしくは現・安養寺)を建てると、そこに入った。 「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に阿弥陀仏(阿弥陀如来)の名を唱えれば極楽往生できるとする思想である。この思想はいわゆる旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。 法然は建永2年(1207年)の承元の法難で讃岐国(現・香川県)に流罪となったが、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻る。その際、吉水草庵に入ろうとしたが荒れ果てていたため、近くにある大谷禅房(現・知恩院勢至堂)に入っている。しかし、翌建暦2年(1212年)1月25日に80歳で没した。 徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛が松平氏第5代松平長親の弟であること、二条城とともに京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し、京都御所を見下ろし朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったといわれている。江戸時代の代々の門主は皇族から任命されたが、さらにその皇子は徳川将軍家の猶子となった。
南禅寺
南禅寺は、京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山の寺院。山号は瑞龍山。本尊は釈迦如来。開山は無関普門(大明国師)。開基は亀山法皇。正式には太平興国南禅禅寺(たいへいこうこくなんぜんぜんじ)と号する。日本最初の勅願禅寺であり、室町時代に定められた五山十刹の制において京都五山および鎌倉五山の上に置かれる「五山の上」の寺院とされ、日本の全ての臨済宗の寺院の中で最も高い格式を持つ。 南禅寺の建立以前であるが、この地には、亀山天皇が文永元年(1264年)に造営した離宮の禅林寺殿(ぜんりんじどの)があった。「禅林寺殿」の名は、南禅寺の北に隣接する浄土宗西山禅林寺派総本山の禅林寺(永観堂)に由来している。この離宮は「上の御所」(上の宮)と「下の御所」(下の宮)に分かれていたが、弘安10年(1287年)に「上の御所」に亀山上皇が持仏堂を建立し「南禅院」と名付けた、これが南禅寺のそもそもの始まりである。後に持仏堂の南禅院は南禅寺の塔頭・南禅院となっている。 南禅寺の復興が進んだのは、江戸時代になった慶長10年(1605年)に以心崇伝が入寺してからである。以心崇伝は徳川家康の側近として外交や寺社政策に携わり、「黒衣の宰相」と呼ばれた政治家でもあった。塔頭の金地院に住した崇伝は、江戸幕府から「僧録」という地位を与えられている。これは日本全国の臨済宗の寺院を統括する役職である。以後、金地院の住持は金地僧録と呼ばれ、絶大な権勢を誇った。
1888年(明治21年)に建設された、当寺の境内を通る琵琶湖疏水の水路閣は田辺朔郎の設計によるもので、テレビドラマの撮影に使われるなど、今や京都の風景として定着している。2005年(平成17年)に南禅寺境内が国の史跡に指定されている。