崇陣天皇陵

3世紀前半において,纏向遺跡の整備や纏向諸墳の王墓造営に労働力の提供がなされたかどうかはわからない。しかし、初代倭国王墓である箸墓古墳については、箸墓型前方後円墳の存在から生前造墓とみられ、3世紀中頃までに墳丘を造り上げていると考えられ、その造営に各地からの労働力の参加を考えてもいいであろう。3世紀後半の事例になるが、桜井茶臼山古墳の造営に関わる遺跡ではないかとされる城島遺跡で、多くの鋤が出土し、東海系や山陰系の土器が多数出土している。なお、纏向遺跡をはじめ各地の交易拠点とされる遺跡から出土する土器の大半は炊飯具の甕であり、米と甕を持参しての労働を思わせる。纏向遺跡には各地から諸階層の人々がやってきているであろうが、使者のようなものは少数であろうし,召し出される技能者も少ないと思われ、多くは労務に従事したと考えられるかもしれない。恒常的なものでなく、その都度の臨時的徴発が累積したものであろうが、纏向遺跡から出土する外来系土器の多さは、倭国に結びつく諸地域からの労役の比重が大きかったことを示すように思われる。
倭における国家形成と古墳時代開始のプロセス 岸本直文
国立歴史民俗博物館研究報告 第185集 2014年2月
3世紀初頭の倭国形成が出発点 p393
倭国乱については、瀬戸内で結ばれる地域間のイニシアテイブ争いと考えられ,これが鉄器の安定的確保をめぐる競合であつたとの見方が有力である。
これを契機に倭国という枠組みができ、中央権力が初めて誕生する。長引く抗争のなかで,利害を調整するため上位権力を設けることが合意さねたのであろう。纏向遺跡は弥生時代のヤマト国の本拠であつたが,ここに倭国の本拠となる。
共立された卑弥呼が何者なのか、ヤマト国王とは別に,倭国形成に合意した諸地域のなかから推戴されたとの見方もあろう。しかし,2世紀後半のヤマト国は既に求心性をもち、3世紀になっても纏向遺跡はそのまま存続し,前方後円墳は引き続き築造され,さらにその共有へ進む。卑弥呼そのものの出自を判断することはできないが、いずれにしてもヤマト国を盟主とすることで合意されたものとみられ、ヤマト国が倭国を統率する中央権力に上昇したと考えられる。
ただし、卑弥呼が「共立」されたとの記述から、ヤマト国が圧倒したと理解することは誤りであり、倭国という枠組みができあがる際に、ヤマト国が盟主とはなるが,この枠組みに参加する諸地域が運営に関与することはありうるだろう。3世紀前半の纏向型前方後円墳あるいは箸墓古墳に、他地域で出現・定着した要素が加わつていることが指摘されており、そうしたなかに諸地域の関与を想定することは妥当であろうが、前方後円墳がヤマト国王墓として出現し、基本的にそれが継承・発展すると理解し得ることを念頭に置く必要がある。

ヤマト国の倭国王は,倭の代表権者であり,中国王朝の承認対象である。3世紀初めに公孫氏が楽浪地域にも進出し新たに帯方郡を設置し、〈魏志韓伝〉によれば韓・倭は帯方に属したという。公孫氏政権に対し、共立されて間もない倭国王が朝貢し、帯方郡に属すと記される外交関係をもち、画文帯神獣鏡がヤマト国にもたらされる。
鏡の授受や墳形の共有から考えると、各地の代表者が集まり倭国王と対面するような関係も既に成立していたと考えられる。纏向にある前方後円墳は引き続き100m規模を保ち、瀬戸内で結ばれる地域に現れてくる前方後円墳との格差は大きい。それが制度的といえるかどうかは検討が必要だが、格差は明瞭である。画文帯神獣鏡の面径や量もこれと同様である。倭国の枠組みに参加した首長の序列化はただちに始まっている。
〈魏志倭人伝〉によれば、卑弥呼治政の晩年に、倭国の枠組みの外にあつた東海地域の勢力と考えられる狗奴国との戦争が起こっているが、それまでの約50年間、こうしてできあがった倭国内部の不安定を示すような記述はない。倭国という新たな枠組みはひとまず維持され,ヤマト国の倭国王のもとに各地域勢力を一定のコントロール下に置き、それぞれの利害を調整する機能は成功したといえる。伽耶の鉄を加工した鉄器の統制は効果を上げ、各地の勢力にとつては、必需材である鉄器を安定的に入手し,また中国鏡などを得ることができたのであろう。