はじめに
魏志倭人伝によると、畿内の国々から共立されて倭国の女王となった卑弥呼は邪馬台国に都していた。238年(景初2年とされる)に倭女王卑弥呼は大夫の難升米らを派遣し、帯方郡にて中国の皇帝に朝献を求め、魏の洛陽に行き、初代の親魏倭王として冊封されている。
後継の2代目の女王とされる台与は、畿内のどこに都したかは分っていない。266年(泰始め2年とされる)に大夫で率善中郎将の夜邪狗らを魏に派遣して朝貢しているので、親魏倭王に冊封されたと思われる。この後の倭国からの朝貢の記録はない。しかし倭国では台与の後も王統が続いており、畿内に大王の墓とみなされる巨大な前方後円墳が面々と築き続けられていることから分かる。しかし、どのような王統であったか中国王朝の国書による記録がないことから分からない。このため、この時期の倭国の歴史については、文字による記録がないことから空白の4世紀とされている。これは倭国の国書とされる記・紀による記載が信用できないとも解釈される。
3世紀の巨大前方後円墳
畿内の巨大前方後円墳は大きく見て、3世紀にまず大和南部、そして奈良県柳本古墳群が優越性を確立し、次に大和北部の佐紀盾列古墳群の勢力に交替し、五世紀には河内・和泉の古市・百舌鳥古墳群に最大級の古墳が出現する。
大王墓とみなされる全長200mを超す巨大な前方後円墳については、近代の考古学者の研究成果により、その構築順序が判明している。まず箸中古墳群の箸墓古墳(全長280m)、ついで北方の大和古墳群の西殿塚古墳(全長240m、現手白香皇女陵)、ついで南の鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳(全長200m)、ついで同じ古墳群のメスリ山古墳(全長約200m)、ついで柳本古墳群の行燈山古墳(全長240m、現崇神天皇陵)、ついで同じ古墳群の渋谷向山古墳(全長310m、現景行天皇陵)となる。
これらの前方後円墳墳は、この三世紀から4世紀中葉までの古墳としては、日本列島各地の大型古墳と比較してもいずれも隔絶した規模をもっている。このことから、これらの古墳が大和政権の盟主、すなわち大王の墓であることは疑いない。おそらく卑弥呼、すなわち初代の大王墓から、第六代までの大王墓がすべてこの地域に営まれていたと想定される。
この初期の大王墓は、いずれも奈良盆地東南部の大和の地に営まれながらも、それらがすべて同一の古墳群に代々営まれているわけでなく、この地の四つの古墳群に分かれて一、二基ずつ営まれている。古墳群というのは、血縁的な同族関係で結ばれた一つの政治集団が営んだものと考えられるので、四つの古墳群に分かれて営まれていることは、大王となった政治集団が移動していたと考えられる。このことは、逆に見れば四つの古墳群の大王同士には血縁関係はなかったが、畿内の政治集団から共立されて大王となり、その証として巨大前方後円墳を営んだことになる。また王朝が移動していることは、大王を出した政治集団の結束力が弱くなり、大王を支える個々の集団の力が強くなっていた可能性が伺える。
崇神天皇は共立された大王
ChatGPT:崇神天皇は日本の神話に登場する伝説上の存在であり、歴史的な記録には存在しません。崇神天皇についての情報は神話や伝承に基づいており、歴史的な証拠に欠けているため、実在性については議論の余地があります。
崇神天皇は実在したのか
ChatGPT:崇神天皇は日本の神話に登場伝説上の存在であり、歴史的な証拠に基づいて実在するとは言えません。崇拝天皇が存在するかどうかについては学術的な議論が続いています。崇神天皇は日本の神話上の人物であり、実在性は不確かです。
崇神天皇は10代の倭国天皇
ChatGPT:崇神天皇は日本の神話に登場する天皇であり、特定的な年齢や10代であるかどうかについては神話や伝承に確かな情報がありません。歴史的な出来事ではなく伝説的な要素が含まれているため、年齢や時代の詳細は不確かである。
崇神天皇の御陵
ChatGPT:崇神天皇の御陵については特定的な場所が特定されておらず、伝説や神話の中ではあるもの、歴史的な証拠はありません。そのため、崇神天皇の御陵について具体的な場所を知ることは難しいです。
おわりに
文献史学の研究者らが指摘する、倭国の第10代の崇神天皇は、その和名が「御真木入日子イエニ命」とされるので、いかにも古代人名らしいので存在したらしいとされている。また記・紀に事績が記載されている初めての天皇なので存在感があるとさている。後継の血縁で結ばれている天皇も事績が記・紀に記載されていることから存在感があるとされている。しかし考古学の研究者らからは、記・紀に記載された、いずれの事績も確認できないことから、彼ら天皇は伝承であり、神話ではないかとされている。しかし台与の後継とされ、畿内で共立された倭国の大王は、面々と巨大な前方後円墳を築いており、それが事績として残されている。また、中国王朝への朝貢はしなかったが、朝鮮半島の諸国とは鉄資源の確保、大陸の先進文化の導入などで交流があったはずなどで、それらの事績の発見が考古学の研究者に求められる。
行燈山古墳『ウイキペヂア(Wikipedia)』
奈良県天理市柳本町にある古墳。形状は前方後円墳。柳本古墳群を構成する古墳の1つ。奈良盆地東縁において、丘陵先端部を切断して築造された巨大前方後円墳である。江戸時代末期に柳本藩による修陵事業が実施され、周濠等に改変が加えられている。墳形は前方後円形で、前方部を北西方に向ける。墳丘は3段築成。墳丘長は242メートルを測るが、これは全国では第16位、柳本古墳群では渋谷向山古墳(天理市渋谷町、300メートル)に次ぐ第2位の規模になる。墳丘外表では葺石・埴輪が検出されている。墳丘周囲には盾形の周濠が巡らされており、周濠を含めた全長は360メートルにも及ぶ。陪塚的性格を持つ古墳数基の築造も認められる。埋葬施設は、後円部における竪穴式石室と推定される。出土遺物としては、円筒埴輪・土師器・須恵器のほか、江戸時代の修陵の際に出土した銅板1枚がある。この行燈山古墳は、出土埴輪・出土銅板から古墳時代前期後半の4世紀前半頃の築造と推定される。柳本古墳群では渋谷向山古墳に先行する時期の築造とされ、渋谷向山古墳とともに初期ヤマト王権の大王墓と目される。被葬者は明らかでないが、現在は宮内庁により第10代崇神天皇の陵に治定されている。

行燈山古墳

白石太一郎 2009『考古学と古代史のあいだ』
初期ヤマト王権の基盤とその原領域 p91
次にこのヤマト王権の中核をになった、奈良盆地東南部の政治勢力のあり方をみてみることにしましょう。次頁の図をみてください。これは奈良盆地東南部、すなわち、やまとの地域における大型古墳の分布状況を示したものです。そのほぼ中央にあるのが、箸墓古墳ですが、この地域には箸墓をふくめて、墳丘の長さが二〇〇メートルをこえる、前期初頭から前期中ごろまで、すなわち三世紀中葉すぎから四世紀中ごろまでの大型前方後円墳が六基もあります。
それらの構築順序については、まず箸中古墳群の箸墓古墳(墳丘長二八〇メートル)が営まれ、ついで北方の大和古墳群の西殿塚古墳(現手白香皇女陵、二四〇メートル)、ついで南の鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳(二〇〇メートル)、ついで同じ古墳群のメスリ山古墳(約二五〇メートル)、ついで柳本古墳群の行燈山古墳(現崇神天皇陵、二四〇メートル)、ついで同じ古墳群の渋谷向山古墳(現景行天皇陵、三一〇メートル)が営まれたものと考えられます。
これらの古墳は、この前期初頭から中葉ころの古墳としては、日本列島各地の大型古墳と比較してもいずれも隔絶した規模をもっています。このことから、これらの古墳がヤマト政権の盟主、すなわち倭国王の墓であることは疑いないといえましよう。おそらく卑弥呼、すなわち初代の倭国王墓から、第六代までの倭国王の墓がすべてこの地域に営まれているものと想定されます。
この初期の倭国王墓のあり方で興味深いことは、それらがいずれも奈良盆地東南部のやまとの地に営まれながらも、それらがすべて同一の古墳群に代々営まれているわけでなく、この地の四つの古墳群に分かれて一、二基ずつ営まれていることです。
私は、古墳群というのは、血縁的な同族関係で結ばれた一つの集団が営んだものと考えています。古墳がヤマト政権の政治秩序と密接な関係をもって営まれたものであるとすれば、それらの古墳群を営んだ集団は、政治的な集団にほかならないということになります。のちに氏とよばれるような政治集団を想定しても大きなまちがいはないものと考えています。とすれば、初期のヤマト政権の盟主、すなわち初期の倭国王は、やまとのいくつかの有力な政治集団から出て、交替でその地位につくといった形の王位の継承が行われていたということになります。
それは、記・紀が初期の天皇の皇位継承について描いているような、 一つの王家の男系世襲制による王位の継承とはほど遠いものであったことが想定されます。

渋谷向山古墳

鈴木民靖民「編」2002『日本の時代史2 倭国と東アジア』
  一瀬和夫  2002 「倭国の古墳と王権」
  大王と地域首長系譜の間 P106
大和王権と地域首長の動向は、この畿内内外でも微妙に反応していた。
畿内の大型墳は大きく見て、四世紀にまず大和南部、そして奈良県柳本古墳群が優越性を確立し、次に大和北部の佐紀盾列古墳群の勢力に交替し、五世紀には河内・和泉の古市。百舌鳥古墳群に最大級の古墳が出現する。
この現象は大和から大阪平野に基盤を置く二大勢力の間を大和王権の盟主権が移動したと考える向きもある(自石太一郎。一九六九)。また、四世紀はじめに崇神天皇を中心とする騎馬民族が九州に上陸し、四世紀末・五世紀はじめに強大な工権を畿内に確立したとする江上波夫の説や、応神天率は応神王朝という新しい王朝の始祖であるとした水野祐の説などがあり、倭の五王の時代にあたる五世紀には河内独自の王朝が存在したとの説が受け入れられたこともあった(井上光貞・一九六五b)。
ともかく、五世紀の畿内全体を見た場合、河内・和泉の古市・百舌鳥の地に圧倒的な規模の墳墓が築かれることになるが、中小地域でもこうした移動現象を起こしている。たとえば、京都府桂川地域では、四世紀に箸墓古墳と緊密であった元稲荷古墳を代表とする向日グループが盟主的な首長系譜として存在したが、五世紀前葉には恵解山古墳のある長岡グループに移動する(都出比呂志。一九八八)。長岡グループは墳丘形態から馬見・百舌鳥古墳群と関係があると考えたいが、その場合、この地域は四世紀の大和東南部と向日グループという連結関係から、馬見・百舌鳥と長岡グループヘと大・中地域相互の内部のつながりが微妙に変化したことになる。兵庫県加古川東岸下流でも、海沿いの日岡山古墳群からそれよりニキロメートル上流にある五世紀代の西条古墳群へと盟主墳の移動を認めることができる。
日本列島内の各地域首長では、先の太田天神山古墳のように大型墳が現れ、地域の勢力権が移動したかのように見える場合もあるが、複数の古墳でグループを形成することなく単独で終わる場合や、五世紀代では大型墳そのものを営まない地域も多い。
古市古墳群の大型墳はさらに他者より一歩抜きんでた。墳丘長四一五メートルの応神陵古墳である。履中陵古墳の墳丘を踏襲しながら、前方部をやや拡大し、外堤を二重に囲む。
この時点で応神陵古墳墳丘本体の平面形を採用してその墳丘規模に肉薄したのは、岡山県の墳丘長二八六メートルの作山と三六〇メートルの造山という古墳にしぼられる。ちょうど、埴輪が容窯で焼かれるようになった頃である。しかし、吉備の古墳に精美な外堤などの間辺施設はない。二古墳とも前方部の端を掘り割った外側に丘陵のはみ出した部分が観察でき、周囲にもとあった丘陵を墳丘下半分として利用する。この場合、墳丘本体の外観が肉薄するのみで、応神陵古墳とは本体の盛土量や周囲の周濠。外堤平坦面の確保と整備といった点では格段の質的な差をともなっていた。
ただしこれも、吉備という範囲で見た場合は別である。造山。作山古墳の規模はあまりに突出する。両古墳の間には後に大きく鉄鍛冶が展開する窪本薬師遺跡もある。以前に比べ、地域を中心とした強大なまとまりをここに実現している。さらに、その規模からして、その範囲では留まらない。これには河内の墳丘平面形を基本スタイルとした津堂城山類型や響窯焼成・B種ヨコハケによる埴輪製作法などといった大和王権のものと類似する要素が数多くあることからすれば、これら被葬者は応神陵古墳被葬者との関係を色濃くもつことで、それぞれの位置を吉備と畿内で補完し合った構造になっている。