太田天神山古墳

5世紀後半になると、太田天神山古墳のような突出した古墳は築かれなくなり、前方後円墳のなかった地域にも100メートル級の古墳が築かれるようになった。大きくは太田、前橋、高崎、藤岡地区に集中し、領域ごとに消長が見られる。これら各地に豪族が割拠していたと見られるほか、古墳が交互に造営されたことから、各豪族が交互に上毛野の首大長の座に就いたと見られている。また朝鮮半島由来の副葬品や多様な人物・動物埴輪など、古墳文化の更なる高まりも見られる。
5世紀後半に至っても多くの前方後円墳が築かれた上毛野は特異的で、それ以外の地域では前方後円墳の数は大きく減少している。この減少の背景には、他地域が王権への従属度を増して円墳を造るようになったことにある。実際にヤマト王権の中央集権化は強まりを見せ、勢力の拡大は稲荷山古墳出土鉄剣(埼玉県行田市)や江田船山古墳出土鉄刀(熊本県玉名郡和水町)の大王銘にも見られる。このような状況でも上毛野には前方後円墳が築かれ続けたことから、王権が上毛野に強い関心を持っていたと考えられている。
『ウイキペヂア(Wikipedia)』毛野は、日本の古墳時代の地域・文化圏の一つ。群馬県と栃木県南部を合わせた地域とされる。
https://ja.wikipedia.org.wiki/毛野
上毛野における古墳の大規模化
群馬県(毛野)では5世紀に入ると古墳の大型化が進み、浅間山古墳(群馬県高崎市、171.5メートル)や別所茶臼山古墳(群馬県太田市、164.5メートル)が築かれた。別所茶臼山古墳は先行する朝子塚古墳(123.5メートル)を伴っている。これらの豪族は5世紀初めの倭の五王の登場とともに、その始祖を助けて強大化したと考えられている。そして5世紀中頃に東日本最大の太田天神山古墳(群馬県太田市、210メートル)が築かれた。同古墳は同時期の上毛野の古墳中では群を抜いており、太田の勢力が前橋・高崎の勢力を呑み込む形で発展したことを物語っている。坂東西部では東京都港区の芝丸山古墳(125メートル)の他に傑出した古墳はなく、毛野の豪族がこの地域で強大な存在であったことを示している。なお太田天神山古墳は全国では26位であるが、築造当時では全国約5位に位置づけられる。また同古墳やお富士山古墳(群馬県伊勢崎市、125メートル)の石棺には長持形石棺が用いられており、畿内の石工による築造が明らかである。この長持形石棺は畿内王者特有のもので、関東での使用例は現在のところ4例しか知られていない。こうした様相から、毛野地域が大きな地域連合体に発展したことが示唆されるとともに、太田天神山古墳の被葬者はヤマト王権から地位を保証されていたと推測される。このように太田天神山古墳で大型化の最盛期を迎えた古墳文化であるが、以後太田市付近には大型の古墳は見られなくなる。代わって上毛野全域において大型古墳が林立するようになる。一方、これらの上毛野における古墳の質・量における充実に対して、下毛野では古墳の数は極端に減少した。