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2024年11月19日 東海道五十三次の宿場町興津駅に11時頃に集合し、清見寺を見学に行きました。拝観料は300円でした。
清見寺は、静岡市清水区興津清見寺町にある臨済宗妙心寺派の寺院。山号は巨鼇山(こごうさん)、正式には「巨鼇山 求王院 清見興国禅寺」(こごうさん ぐおういん せいけんこうこくぜんじ)と称する。寺伝では奈良時代の創建と伝える。平安時代は清見関(清見ヶ関)に置かれた比叡山を総本山とする天台宗の寺院であった。鎌倉時代に禅寺として復興し、足利尊氏や今川義元の帰依を受けて繁栄した。また、その頃、徳川家康は今川氏に人質としてであったが、当寺の住職太原雪斎に師事し、当寺で勉強していた。交通の要衝であり、武田氏による駿河侵攻の際には、今川氏真が本陣を構えたものの、薩埵峠の戦いによる家臣の相次ぐ離反、武田方への内通により戦わずして駿府城に撤退している。江戸時代には徳川氏の庇護を受けたほか、東海道の目の前にあることから、朝鮮通信使や琉球使の接待がここで行われた。広島県福山市鞆町にある福禅寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にある本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡として国の史跡に指定されている。また庭園も国の名勝に指定されている。
清見寺を見学を見学した後は興津駅まで戻り、あとから来た仲間と合流し薩埵峠を超えて由比宿に向かいました。高低差は約200m、歩程は約10kmとかなり厳しいトレッキングでした。
薩埵峠の戦い(さったとうげのたたかい)は、戦国時代の1568年(永禄11年)12月から翌月にかけて駿河国薩埵峠(静岡県静岡市清水区)において、武田信玄の軍勢と今川氏真・北条氏政の軍勢との間で2度にわたって行われた合戦である。永禄11年12月12日(1568年12月30日)から翌日にかけて行われた戦いを「第一次合戦」と称する。桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれた後、今川氏真が家督を継承したが、長年の今川氏の領国支配から三河の松平元康(徳川家康)が離反した。この状況を見た甲斐の武田信玄は、長年維持してきた甲相駿三国同盟を破棄し今川領である駿河を併合して「海への出口」を確保する方針に転換、徳川家康と秘かに約束を結び駿河遠江両国の境界となっていた大井川を境として武田・徳川両氏が今川領を分割することとした。永禄11年12月6日、武田信玄は甲府を出発し、6日後には駿河国庵原郡内房(現在の静岡県富士宮市)にまで達した。この知らせに驚いた今川氏真は直ちに庵原忠胤に1万5千の兵を率いて薩埵峠で迎え討つように命じ、自らも清見寺に陣を構えた。更に自らの義父でもある相模の北条氏康にも使者を発し、直ちに出陣して信玄の背後を突くように要請した。氏真は武田軍が今川氏の本拠地である駿府を攻めるには薩埵峠を経由するほかなく、ここを固めて迎撃していれば必ず北条氏の援軍と挟みうちにできると読んでいたのである。12日より峠の東側で戦いが始まり今川軍はよく峠を守った。しかし武田方、或いは徳川方は重臣級にも内通を呼びかけており、朝比奈氏・葛山氏など21名が秘かに武田方に内通する姿勢をみせた(『松平記』など)。13日には身の危険を感じた今川氏真は清見寺を脱出して駿府の今川館に逃れ、駿府の北西にある詰城賤機山城に籠城しようとした。だが、氏真の撤退が最前線に伝わると総崩れを起こし、これを追いかける形で武田軍は薩埵峠を突破、その日のうちに駿府に突入した。
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