京都の世界遺産巡り

二条城、嵐山_______________           仁和寺、龍安寺、金閣寺_____________________________

。
きぬかけの道エリア 。 2024年10月22日
京都散策の2日目は世界遺産に登録されている寺院を巡りました。最初に行ったのは京福電気鉄道(嵐電)の御室仁和寺駅から北に徒歩3分の仁和寺です。さすがに世界遺産に登録されている施設は、どこも拝観料800円〜1000円を徴収されました。どのような基準で金額が決められているか分かりませんが、良い観光収入になっているようです。仁和寺を見学した後は、きぬかけの道を東に歩いて龍安寺、金閣寺と観光しました。金閣寺には広い広い駐車場があり、子供たちの団体や、外国人団体ツアーで大変な賑わいでした。大徳寺にも行きたかったのですが時間が足りなかったのでパスして、京都市営バスに乗って二条城に行きました。二条城は徳川家の元離宮であったためか大政奉還の将軍・大名の謁見の人形が展示されていました。それから再び嵐電に乗り嵐山の天竜寺を訪ねましたが、16時を過ぎており、既に夕闇になっており閉門でした。
仁和寺 。 仁和寺(にんなじ)は京福電気鉄道(嵐電)の御室仁和寺駅から北に徒歩3分です。
仁和寺は仁和4年(888)に創建された寺院であり、現在は真言宗御室派の総本山である。境内には五重塔や二王門など江戸時代に建立された建造物や御所庭園が並んでいる。同時期に植えられた御室桜は4月中旬に見頃を迎えるが、建物と同様、当時と同じ姿を現在に伝えている。平成6年(1992)には世界遺産に登録された。
仁和寺は、皇室とゆかりの深い寺(門跡寺院、皇族・公家が住職を務める寺院)で、出家後の宇多法皇が住んでいたことから、「御室御所」(おむろごしょ、皇室の住居の意味)と称された。明治維新以降は、仁和寺の門跡に皇族が就かなくなったこともあり、「旧御室御所」と称するようになった。当寺は平安時代前期、光孝天皇の勅願で仁和2年(886年)に建てられ始めた。当寺の初代別当は天台宗の幽仙であった。しかし、昌泰2年(899年)10月に宇多天皇が当寺で出家して宇多法皇となると、翌11月には東寺にて真言宗の益信を戒師として出家し、これを機に当寺の別当を真言宗の観賢に交替させている。これによって当寺は真言宗の寺院として定着することとなった。
。
。
。
。
龍安寺 。 龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭(大きな寺院の敷地内いある独立寺院のこと)。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。
もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。
細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468)に焼失した。長享2年(1488)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。明応8年(1499)には方丈が上棟された。『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。
。

。
。
。
金閣寺 。 鹿苑寺(ろくおんじ)は、日本の京都市北区金閣寺町にある臨済宗相国寺派の寺院である。大本山相国寺の境外塔頭で山号は北山。本尊は聖観音となっており、建物の内外に金箔が貼られていることから金閣寺とも呼ばれている。正式名称は北山鹿苑禅寺である。寺名は開基の室町幕府第3代将軍足利義満の法号「鹿苑院殿」にちなんでつけられた。寺紋は五七桐、義満の北山山荘をその死後に寺としたものである。舎利殿は室町時代前期の北山文化を代表する建築だったが、昭和25年(1950年)に放火により焼失し、昭和30年(1955)に再建された。平成6年(1994)にユネスコの世界遺産(文化遺産)「古都京都の文化財」の構成資産に登録された。
鹿苑寺の一帯は、鎌倉時代の元仁元年(1225)に藤原公経が西園寺を建立し、併せて山荘を営んでいた場所である。西園寺家は代々朝廷と鎌倉幕府の連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡後に当主の西園寺公宗が後醍醐天皇暗殺を企てたことが発覚。公宗は処刑され、西園寺家の膨大な所領と資産は没収。西園寺は次第に修理されなくなっていった。応永4年(1397)、金閣寺の開祖である足利義満が河内国と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築を行い(北山山荘)、当時は「北山殿」「北山第」などと呼ばれた。山荘の規模は御所にも匹敵し、政治中枢の全てが集約された。応永元年(1394)に将軍職を子の義持に譲った義満だが、実権は手放さず北山殿にて政務を執っていた。応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失したが、江戸時代に西笑承兌が中興し、以後主要な建物が再建され、舎利殿も慶安2年(1649)に大修理された。明治維新後の廃仏毀釈により、寺領の多くが返上されて経済的基盤を失ったが、当時の十二世住職貫宗承一により明治27年(1894)から庭園および金閣を一般に公開すると共に拝観料を徴収して寺収入を確保した。舎利殿(金閣)は古社寺保存法に基づき明治30年(1897)「特別保護建造物」に指定され、昭和4年(1929)の国宝保存法施行に伴い(旧)国宝に指定された。
昭和25年(1950)放火により国宝の舎利殿(金閣)と安置されていた仏像等を焼失する(金閣寺放火事件)。文部省文化財保護委員会と京都府教育委員会で協議が行われ、国宝指定の解除と金閣再建の援助が決定された。再建費用として、政府からの補助や全国各地からの寄付により約3000万円(当時)が集められ、昭和27年(1952)着工、昭和30年竣工。同年10月10日に落慶法要が営まれ、創建当時の姿に復元された。
。

。
。
。
二条城 。 二条城は、江戸時代の徳川将軍家の平城であり近代においては皇室の離宮の役割を担った。正式名称は元離宮二条城である。築城理由には都および朝廷のある京都に江戸城の分身の役割として徳川家康は京都御所・公家町(現:京都御苑および冷泉家一帯)および洛中の守護並び上洛時の居城として造営した城である。
二条城では徳川家康の将軍宣下に伴う賀儀、江戸幕府による禁中並公家諸法度の公布、後水尾天皇の行幸、幕末期は徳川慶喜の居城となり大政奉還の上奏、離宮時代には大正天皇の行啓や饗宴の儀など徳川幕府の始まりと終わりをはじめ日本の歴史を見届けてきた歴史的に重要な場所である。
  明治維新により徳川将軍家から接収された二条城は、1884年に皇室の「二条離宮」へ変遷した。その後、昭和14年(1939)に京都市に恩賜され、元離宮二条城と改称、そして現在に至る。
城内全体が国の史跡に指定されている他、狩野探幽をはじめとする狩野派一門など各名工らが荘厳華麗な金碧画から可憐な花鳥画までの障壁画と多彩な透彫欄間や飾金具ともに日本唯一本来の徳川将軍家城郭御殿完全遺構である二の丸御殿(6棟)が国宝に、旧桂宮邸である本丸御殿をはじめ22棟の建造物と二の丸御殿の障壁画計1016面が重要文化財に、小堀遠州の代表作と知られる二の丸庭園が特別名勝に指定されている。城外史跡には、築城時代からの史跡二条城外堀護岸が存在する。 平成6年(1994)にユネスコの世界遺産(世界文化遺産)に、歴史的および文化的価値の高さから洛中唯一の城郭建築として「古都京都の文化財」として登録された。
。

。
。
。