嵐山の世界遺産巡り

天龍寺、嵐山_______________           仁和寺、龍安寺、金閣寺_____________________________

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嵐山・嵯峨野 。 2024年10月22日
嵐山は、京都市西部にある標高382メートル。大堰川(おおいがわ)を挟んで西側の松尾山・嵐山・烏ヶ岳の嵐山三山と、東側の小倉山・亀山、さらにはその麓を含んだ地域を一般的に嵐山と称し、山麓は多数の寺社が立地する観光名所である。 近くには嵯峨嵐山駅があり、この辺り一体が嵯峨野と呼ばれる事も多い。 近くのトロッコ嵐山駅からは嵯峨野トロッコが出ており、保津峡などを眺めながら乗る事ができる。嵐山は桜や紅葉の名所である。京都の代表的な観光地で嵐山の中心部を流れる桂川にかかる渡月橋は嵐山の象徴になっている。なお渡月橋をはさんで上流が大堰川(おおいがわ)、下流から桂川と呼称が変わる。
嵐山には13世紀末に亀山上皇が吉野からサクラ数百株を移植したとされ、その後も夢窓国師によって吉野からヤマザクラ数千本が移植されるなどサクラやマツの植栽が行われた。嵐山の戸難瀬(となせ)の滝(音無滝)があり、滝の上流には蔵王権現堂がある。
嵐山山麓に広がっていた森の多くは天龍寺領で明治時代の社寺上知令により官有地に編入され、のちに嵐山国有林となった。昭和2年(1927)には史跡名勝「嵐山峡」に指定され、風致地区に指定されている。1990年代以降、小規模な。博物館の開館が相次ぎ、温泉が掘削された(嵐山温泉)。観光シーズンになると渋滞が激しい。大堰川の上流の保津川の流域では林業が盛んであり、かつては伐採した木材を京都の街に運ぶために川が使われた。嵐山はその終着点であり、現在では同じコースを遊覧船で下る。平安時代の貴族たちにも好まれた風光明媚なる渡月橋周辺は嵐山のシンボルとなっている。亀山上皇の「月が橋を渡るように見えた」という言葉が名前の由来で、平安時代から長く愛され続けている。
天龍寺 。 天龍寺(てんりゅうじ)は、京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町にある臨済宗天龍寺派の大本山の寺院。山号は霊亀山(れいぎざん)。本尊は釈迦三尊。正式には霊亀山天龍資聖禅寺(れいぎざんてんりゅうしせいぜんじ)と号する。開基(創立者)は足利尊氏、開山(初代住職)は夢窓疎石である。足利将軍家と後醍醐天皇ゆかりの禅寺として京都五山の第一位とされてきた。桜に花々、紅葉など季節ごとに美景が楽しめる禅寺。法堂の天井に描かれた「雲龍図」は、どこから見ても目線が合うことから「八方にらみの龍」でも知られ、庫裏の玄関では大きな「達磨図」がある。「古都京都の文化財」としてユネスコ世界遺産に登録されている。
平安時代初期、嵯峨の地には橘嘉智子(嵯峨天皇の皇后)が開いた檀林寺があった。その後、約4世紀を経て荒廃していた檀林寺の地に後嵯峨天皇とその第3皇子である亀山天皇は大覚寺統(亀山天皇の系統)の離宮を営み、亀山殿と称した。対立していた後醍醐天皇の崩御に際して、その菩提を弔う寺院の建立を尊氏に強く勧めたのは、当時、武家からも尊崇を受けていた禅僧・夢窓疎石であった。尊氏が後醍醐天皇の菩提を弔うため、北朝の治天である光厳上皇に奏請し、院宣を以って離宮であった亀山殿を寺に改めたのが天龍寺である。
天龍寺は応永17年(1410年)以来、京都五山の第一位として栄え、寺域は約950万平方メートル、現在の嵐電帷子ノ辻駅あたりにまで及ぶ広大なもので、子院150か寺を数えたという。しかし、前述した幾度の大火に被災したことで、創建当時の建物はことごとく失われた。この後、明治時代後半になりようやく再建される。なお、方丈の西側にある曹源池(そうげんち)庭園にわずかに当初の面影がうかがえる。
「天龍寺文書」と呼ばれる2,500点余りの文書群を所蔵しているが、中世以来の文書は度々の火災で原本を失ったものが多く、関係の深い臨川寺の文書が後に天龍寺に多数移されたこともあって、「一般に天龍寺文書といわれるが、現実には臨川寺文書が多数を占める」とまで言われている。これに対して近世のものは寺の日記である「年中記録」などの貴重な文書が伝えられている。ともに、中世・近世の京都寺院の状況を知る上では貴重な史料である。
方丈の北側には、宮内庁管理の亀山天皇陵と後嵯峨天皇陵がある。
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