【丁未の乱と物部氏】物部氏は生き残った

はじめに
『日本書紀』によれば西暦五五二年に百済の聖明王から欽明天皇へ釈迦仏の金銅像が贈られたのが仏教の公伝とされている。欽明天皇が群臣(まえつぎみ)に仏教を受容すべきかを尋ねたところ、蘇我稲目は受容を主張したのに物部尾輿は反対している。やがて敏達天皇期が過ぎ後継の用明天皇が崩御すると長年対立してきた大連物部守屋を大臣蘇我馬子が用明二年(五八七)年に討伐している。 この豪族同士の争いを干支暦で丁未の乱という。この争いがあったことで、倭国では古墳時代の最中ながら仏教が受容され、やがて大王の宮廷が磐余から飛鳥に遷ったことで飛鳥文化が花開いた。
丁未の乱は倭国の政治構造、文化形成に大きく寄与したが、古代の内乱の記録は『日本書紀』にしか残っていない。それによれば丁未の乱は、仏教の受容を巡って大臣・蘇我馬子と対立した大連・物部守屋が戦い、皇族や諸豪族も参戦している。しかし蘇我氏が渡来系氏族を介して物部氏の勢力圏へ侵攻してきたことに始まる政治権力争いであった、あるいは皇位継承に関わる争いであったとも読み取れる。
第一章にて『日本書紀』の丁未の乱に係る記述を分析することにより、物部守屋の出自、繁栄、滅亡を研究し、騒乱の原因を追求する。続いて第二章では、仏教伝来に係る崇排仏・祭祀・蕃神の関係を研究し、聖徳太子の実像を追及する。
『日本書紀』が意図したことは、倭国が古墳時代の最中に仏教伝来を国家宗教に変革し、天皇家を中心とした政治構造にしたことを歴史に残すことにあった。しかし、このことに固執したために、古代の歴史を語る過程で一部に神話的造作が行なわれているので、その背景について検討し、記述があることを指摘する。
注一 本論で引用している『日本書紀』の記述は、『日本書記 全現代語訳(上)(下)』 宇治谷孟、講談社学術文庫を使用している。
注二 聖徳太子の尊称については後世の日本書紀の編集時に与えられたものであること、また当時には王位継承の仕組みである皇太子はなかったことから厩戸皇子が正しいとの先学の指摘がある。しかし、本論では『日本書紀』の一部を引用しているので、そのままの尊称を用いている。
第一章 丁未の乱と物部氏
第一節 物部氏の成立
古墳時代の豪族であった物部氏については多くの先学が研究している。なんといっても『日本書紀』の記述するところでは、物部氏の祖先とされる饒速日尊が神武天皇の大和入りに先立って、天磐船に乗って河内に舞い降りており、大和で神武天皇を出迎え、奉仕したことになっている(一)。崇神天皇朝では同じく祖先である伊香色雄命が協力・奉仕したと記述されている(二)。これらの記事をそのまま信ずることはできないが、祖先伝承を持つ有力豪族であって、天皇家に奉仕しながらも古墳時代の文化形成に役立ち、飛鳥時代、白鳳時代まで活躍した豪族であったことは確かなようである。
まずは先学の研究を紐解きながら物部氏を職学について考えてみたい。「物(モノ)+部(べ)」という語構成で物は王権に協力・奉仕に関わる宗教的・軍事的・物質的な諸物を意味するようであり、部はそれらを専門的に扱う集団を表している。してみると物部氏とは王権により作られた集団であったが、やがて才能が優れた者が現れ連(むらじ)として管理者になり、豪族化したことになる。従って、葛城氏、尾張氏、阿刀氏といった地名をウジ名とする豪族や蘇我氏、阿部氏、平郡氏といった大和在地の豪族たちとは出自が違っていることになる。このような物部氏の成立については、松尾 光(三)、前田晴人(四)、篠川賢(五)、加藤謙吉(六)、本位田菊士(七)、畑井弘(八)、志田淳一(九)、野田嶺志(一〇)、直木孝行郎(一一)らが、大和王権に協力・奉仕する部民制度が古墳時代にはあったことは正しいとする立場から、物部氏の出自を認めている。しかしながら平林彰仁(一二)、黛弘道(一三)らは、『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に記述されている物部氏の系譜があったとして、物部氏が王権により作らた集団であることを認めていない。
部は政治的組織体の名称で、氏姓制度と関連して六世紀前後に導入され、大和朝廷に隷属してさまざまな奉仕をする中央・地方の伴造氏族と地方民や技術者の集団を表す名称であった。部民制度の成立過程からいって、五世紀中葉から後半にかけての時期に物部が設定され、管理する伴造として物部連という氏族が成立し、朝廷で次第に勢力をえたとされる。しかし物部、物部連の成立時期につては諸説がある。前田晴人(一四)、加藤謙吉(一五)は物部の成立は五世紀後半としている。篠川賢(一六)は物部連の成立は五世紀末から六世紀はじめとしている。
「天孫本紀」とは古墳時代の豪族であった尾張氏と物部氏の系譜を詳しく記述しており、『先代旧事本紀』巻五(一七)に収録されている。『先代旧事本紀』は天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されているが、それには饒速日尊が天磐船に乗り、天神御祖から授けられた天璽瑞宝を携えて河内国川上哮峯(たけるがみね)に天降り、やがて大和に遷り、神武天皇に奉仕したと記述されている。この饒速日尊の伝承は、もちろん神話であるが、その係累の系譜を根拠として物部氏の成立を語ることは認められない。
本論では、大和朝廷の部民制度が六世紀前後に導入されていることから、これを根拠とする前田晴人・加藤謙吉らの見解を尊重して物部、物部連の成立は、六世紀前後とする。
第二節 物部氏の職掌
物部氏の職掌(専門職・本務)は、先学の指摘によれば
�〃抻 �行刑・軍事
��王権祭祀・祭具の調製
��神庫・神宝の管理
�て�用品一般の製作
等があげられている。
直木孝次郎は「犯罪人の逮捕・処罰に関する所伝や記録が多く、物部氏の本来の任務はここにあったのではないかとおもわれる」と指摘している(一八)ので、�〃抻 �行刑が物部氏の本務・本職であり軍事はそれから派生した二次的な職務であったとしている。前田晴人は「物部と物部連が警察的職務を持っていたので、物部が宮廷に配せられ、部および氏族としての物部・物部連の軍事力が宮廷警護にも役立てられていたと思われる。物部と物部連のこうした性格は、五・六世紀にまでさかのぼらせてよいであろう。つまり物部連は物部を指揮し、宮廷に直属して、宮廷内外の警備・警察をつかさどることを本来の任務としたのである。物部氏が宗教的色彩を持つのは、宮廷内部と接触するようになった結果と考えたい。また継体朝から欽明朝にかけて、しばしば朝鮮問題に関係し、遠征軍の将軍となっているのは、物部氏が武力を集められることから来ているのであろう。」と指摘している(一九)ので、�〃抻 �行刑が物部氏の本務・本職であり軍事も本務・本職であったことになる。松尾光(二〇)によると、日用品の調達、祭祀用、兵器と特定されていない、祭祀というと物部氏というほどの関連性はない。従って�い琶�部の分布により様々な職掌形態があったということになる。吉村武彦(二一)によると、武器を貢納して神事・軍事で王権に奉仕している。従って�△汎団蠅気譴討い覆い�、時代の変遷、環境の変化により�,發△蠅Δ襪海箸砲覆襦�
本論としては王権に奉仕・協力する様々な職掌を、歴史環境が変わりながらも、それぞれいくつかの物部集団が分担していたように思われる。特に警察、行刑、警護、軍事などは重要な任務であった。なお祭祀については、先学の指摘が少ないことからも、当初の職務ではなかったように思われる。
第三節 物部氏の分布
物部氏の分布については、先学の指摘がある。
松尾光(二二)によると、物部郷は全国に分布し、物部神社があった。上番し、都で警護し、指示に従い奉仕する集団であり、物部氏の配下にいる物部は専属の下請け集団であったとしている。前田晴人(二三)によると、物部守屋は丁未の乱で敗死したが、全国の物部は残った。なぜなら警察・行刑の職務は公共機能であったとしている。篠川賢(二四)によると、物部という部は職掌の固定化・細分化されていない部であったため、多くの出仕者が物部に編集されたとしている。
物部という伴造氏族は大伴氏・蘇我氏などの在地豪族と異なり、ある特定の地域に蟠踞する氏族を起源とするものではなく、部民制度の発足当初には畿内のそれぞれの地域の要地に居住する首長らがその地域の警察・行刑の職に任じられ物部と称している。やがて河内国渋川郡にいた物部の一族が頭角を現し、王権は一族の族長を大連に任じて物部の氏組織全体を統率・管理させたのであり、その後大連家は配下の有力な氏との間で婚姻関係や職務活動を通じて同族・同系の関係を拡大したと思われ、さらに職務の多様化・複雑化に対応して伴造制の下部組織を充実させた。 こうした動きは地方にも拡大していって、万葉歌などに八十氏(ヤソウジ)にかかる物部(モノノフ)という枕詞が見られるように負名として複姓を有する氏集団と地方民からなる物部を組織したと考えられる。
物部氏が日本書紀に登場するのは履中・雄略朝の頃からですが、当時期前後に王権による列島主要部の政治的統合が進み、国内外の交流・交易関係の活発化による各種の紛争・犯罪の多発化があったと思われる。王権はまず畿内の警護を組織し、続発する首長層の抵抗や犯罪に対処する地方の物部を組織させたのではないかと思われる。
第四節 物部氏の伝承
物部氏は古代部民制の展開とともに勢力を有し、軍事・警察的な任務を職掌とし、また神祇において石上神宮にも深いかかわりをもつ氏族でもあった。その物部氏が五世紀から六世紀にかけて、大伴氏とともに大連となり、大伴氏没落後は、六世紀末葉にいたるまで、蘇我氏に対立して権勢をふるったことは『日本書紀』に記述されている。そしてこの有力豪族が、祖霊崇拝の伝承を持ち、宮中祭祀を主宰する宗教的色彩を持っていたことで勢力を得ていたことについては『日本書紀』や平安初期に編纂されたとされる『先代旧事本紀』に記述されている。
このような物部氏の伝承については、すでに多くの先学によって研究されている。平林彰人(二五)によると、祖霊である饒速日尊が天降りに際しての鎮魂の呪儀を保持継承する祭祀氏族であったとしている。吉村武彦(二六)によると、饒速日尊から石上朝臣麻呂までの系譜は尊重すべきとしている。一方で、前田晴人は、「おそらく饒速日の原像は雷神であり、河内の国を本貫とした物部大連家の政治力が増強するにつれて、氏神の神霊が神武天皇の大和入りに協力・奉仕する説話をつくった」(二七)。篠川賢(二八)によると、物部氏の係累であった石上麻呂は文武朝七〇八年に左大臣であり、神武期の饒速日伝承、崇神期の伊香色雄伝承には物部氏の顕彰に関与が想定されるとしている。野田嶺志(二九)によると、物部氏の後裔は天武・持統朝になって祭祀の任務につき、践祚大嘗祭では建盾鉾の独占により有力遺族となったとしている。先学の研究には相反する見解があり、一方は饒速日を祖霊とする物部氏の系譜は尊重すべきとするものであり、他方は同じくは後世の末裔が作った自らを顕彰した説話であるとしている。本論では、神話である神武天皇に奉仕したされる饒速日尊の実像は疑わしいことから、前者の見解は説話とすべきと考える。後者の物部氏の末裔は本宗の滅亡で勢力が衰えるが、やがて祭祀を主宰する任務についたいたことから、文武朝で石上麻呂が左大臣となり物部氏の顕彰に関与したとする歴史の実像は理解できる。
物部連は物部を指揮し、宮廷に直属して、宮廷内外の警備・警察をつかさどることを本来の任務としたのである。物部氏が宗教的色彩を持つのは、天武・持統朝になってからと考える。また継体朝から欽明朝にかけて、しばしば朝鮮問題に関係し、遠征軍の将軍となっているのは、物部氏が武力を有していたからであろう。なお石上麻呂が石上朝臣に改姓した理由につては石上神宮を管理していたこと、石上に奥津場があり、主要な活動拠点であったことなどが想定される。
第五節 物部守屋の滅亡
『日本書紀』 第二十一巻 用明天皇 橘豊日天皇、以下の記述がある。
二年秋七月、蘇我馬子宿禰大臣は、諸皇子と群臣とに勧めて、物部守屋大連を滅ぼそうと謀った。泊瀬部皇子・竹田皇子・廐戸皇子・難波皇子・春日皇子・蘇我馬子宿禰大臣・紀男麻呂宿禰・巨勢臣比良夫・膳臣賀拕夫・葛城臣烏那羅らが、一緒になって軍勢を率い、大連を討った。大伴連嚙・阿倍臣人・平群臣�端蝓�坂本臣糠手・春日臣、これらは軍兵をつれて、志紀郡から渋河の家に至った。大連は自らの子弟と奴の兵士を率いて、稻を積んだとりでを築いて戦った。大連は衣揩の地の榎の枝股に登って、上から眺め射かけることは雨のようであった。その軍は強く勢いが盛んで、家に満ち野に溢れた。皇子たちと群臣は弱くて、恐れをなし三度退却した。
五世紀後半から次第に台頭してきた大連の物部氏は、六世紀末の用明天皇二年(五八七)の丁未の乱で本宗は滅亡した。この争いは仏教受容を主張する蘇我氏と蕃神を拒否する物部氏を中心とする二大勢力の対立に、天皇の拝仏可否を絡ませた形で『日本書紀』には記述されている。この丁未の乱の中心は物部守屋大連と蘇我馬子大臣の争いであったが、その原因については先学の研究がある。
本位田菊士(三〇)によると、丁未の乱は古くからの崇仏排仏論争が原因であったとしている。この説は『日本書紀』の記述に従っている。加藤謙吉(三一)によると、政治的対立が原因であり、王権継承問題が契機になったとしている。崇仏排仏論争についてはあったかもしれないとしているので、争乱の発端は次の大王を決めるためとされる。一方で、平林彰人(三二)は、物部氏が蘇我氏の公的仏教信仰に反対であったのが争いの原因としている。また、畑井弘(三三)は、物部守屋とその弟の物部贄子の婚姻政策に絡めた蘇我馬子との相続争いも原因であったとしている。いずれの研究も的確な分析であり、争乱は複雑な要因が重なって発生したといえるようである。
敏達天皇はその十四年八月(五八六)に崩じ、崇峻天皇四年四月(五九一)に磯長陵に葬られたとあるが、四年八カ月の長期にわたる喪(もかり)は例外的で、そこに複雑な事情―皇位継承問題―の存在したことは確かである。欽明天皇の皇子の穴穂部皇子(蘇我稲目の女小妹君所生)は次代の皇位を継ぐ意志があった。だが異母兄弟の大兄皇子が皇位を継ぎ用明天皇となったが、その即位事情は分かっていない。この天皇は在位二年余の極めて影の薄い存在であり、先帝の濱期間中に即位し、先帝よりも早く埋葬された異例の存在であったといわねばならない。
用明二年四月に、病気(痘瘡)治療のために仏教に帰依したいという希望を専決せず群臣に諮問している。この時、穴穂部皇子は守屋らの意向に反し、豊国法師を内裏に引き入れ守屋の怒りをかっている。その七日後に用明天皇が亡くなり、守屋は穴穂部皇子を天皇に擁立しようと謀った事が漏れ失敗している。その二カ月後の六月に、敏達天皇の大后炊屋姫尊(後の推古天皇)の許諾を得た蘇我馬子らは、穴穂部皇子と宣化天皇の子の宅部皇子を殺害している。さらに翌七月には、蘇我馬子・諸皇子・群臣がこぞって物部守屋を滅ぼした。当時、王権内では王位継承をめぐる対立が深刻化していたが、物部守屋の滅亡が仏教崇拝をめぐる蘇我氏と物部氏の私的な抗争ではなかった。穴穂部皇子を殺した際には炊屋姫尊を奉じ、物部守屋を攻撃した際には多くの有力王族と氏族を動員していることからも明白である。すなわち、それらは蘇我馬子の専断な振る舞いではなかったのであり、王権内部の権力闘争があったと思われる。
なお、天理市の布留遺跡が物部氏の奥津城であることについて考えておきたい。この地域は物部贄子の本貫地とされている。物部贄子は物部守屋の弟ですが丁未の乱には参加していない。本宗の守屋が滅んだ後に、物部の職掌を大臣蘇我馬子の支援により引き継いだと言われている。やがて石上神宮の管理も委ねられ、この系統は後に姓を変え石上を称している。
第六節 『日本書紀』の物部氏
『日本書紀』には、崇神・垂仁朝の物部氏の歴史について、以下の記述がある。
崇神七年八月、物部連の先祖の伊香色雄を神班物者とする
崇神七年十一月、伊香色雄に命じ、物部八十手に祭神の物を作らせる
垂仁二五年二月、天皇、物部連の先祖十千根ら五大夫に詔りして、神祇を祭ることを怠らないように命ず
垂仁二六年八月、物部十千根大連を出雲に遺し、神宝を校せしめる
垂仁八七年二月、大中姫命、物部十千根大連に石上神宮の神宝を授けて治めさせる
仲哀九年二月、天皇の死に際し、皇后は物部昨連ら四大夫に命じて、百寮を領し宮中を守らせる
これらの記事には、物部氏と祭祀との関係をしめすものが多く、物部氏の性格を考える上に重要な伝承であるが、いずれも四世紀末以前にかかる所伝であって、なんらかの背後の事実はあるにせよ、いずれも後代に造られた記事とせざるをえない。このような宗教的所伝は、物部氏が六世紀末に没落して、政治の中枢から締めだされ、氏族の性格に若干の変化を生じたのちに造られたものであろう。とくに��や�Δ竜�事に、五大夫・四大夫などの語があることは、推古朝以降に造作されたことを示している。
政治上、新しい時代が始まったと考えられる応神・仁徳朝には、物部氏の姿がみえず、五世紀中葉とされる履中朝から、物部連に関する記述が『日本書紀』にみえはじめる。
�〕�中二年 物部伊菖弗大連・平群木薫宿祢・蘇我満智宿祢・円大使主が国事を執る
�⇒�中三年 物部長真胆連は腋上の室山より花を求めて天皇に献じ、姓を改めて稚桜部造という
�0孫�前紀 穴穂皇子(安康天皇)に対立した軽太子は、物部大前宿禰の家にかくれたが、大前宿禰は穴穂皇子お迎えして、軽太子は自殺する
�ね採�前紀 物部目連・大伴連室屋を大連とした
�ネ採�元年 雄略天皇、物部目大連の言によって疑をとき、 春日和堂所童女君を妃とする
�ν採�十三年 歯田根命がうなめを奸した罪を物部目大連に責めさせた
��雄略十八年 物部菟代宿祢・物部目連とともに伊勢の朝日郎を討つ、物部目連は物部大斧弁手を従えて、目的を果たす
これらの記事をそのまま信ずることはできないが、部民制度の成立過程からいって、物部連が五世紀中葉から後半にかけての時期に、刑事・行刑・警察の職掌にあり、王権に隷属し奉仕・協力する部民であり、朝廷で次第に勢力をえてきたことは事実とされる。おそらくこのころに物部という部が設定され、これを管理する伴造として物部連という氏族が成立したと思われる。これを前提にすれば� 銑Δ諒�部氏の崇神・垂仁朝における事績には、物部氏の祖先・係累の名があり、その祖先らが王権に隷属し行った祭祀・神祇の職掌のことが記述されていて、現代では物部氏が存在しなかったとされる4世紀末以前の期日まで記されていることが疑問とされる。
『日本書紀』では神武天皇が東遷して大和の生駒山を目指した際に、土着の首長・長髄彦が抵抗したので、先にこの地に天下っていた物部氏の開祖である饒速日尊が殺して、天皇に帰順したとある(三四)。したがって、神武天皇に帰順した物部氏は、崇神・垂仁朝でも係累が隷属している事績を作ることにより神話が成立すると考えたのではないかと思われる。
なお、応神・仁徳朝の物部氏の事績については、王権に従う部民制度が施行されていた可能性があることから、さらなる検討・研究が必要と思われる。