はじめに
巨大化した前方後円墳が最初に築造されたのは畿内で倭国王として卑弥呼が共立された時点であり、それが箸墓古墳である。その後も畿内には綿々と巨大前方後円墳が造られており、考古学の研究者らは、目安として墳長が約200mを超すものは、大王級のものであるとしている。
巨大な前方後円墳を築くには、多大な労働力、財力の投入が数年にわたって必要であり、墓ではあるが、大王の威厳を持って生前から造り始めなければ、葬られるときに間に合わない。卑弥呼が始めた巨大前方後円墳文化には、卑弥呼が巫女であったことを考えれば宗教的観念があるので、単純な墓ではない。また倭国王であったことを考えれば行政的観念が感じられ、単純な巨大建造物ではない。
巨大前方後円墳文化は観念的統合の記念物
卑弥呼が30ヶ国に近い首長国集団から共立され、宗教的観念の統合を図るべく、生前から箸墓古墳を造り始めたとすれば、畿内各集団の祭祀様式を見ていただろうし、列島各地の首長国集団の祭祀的伝統を見たうえで実現したとみるべきであろう。列島規模の結集を象徴する産物として意図された可能性は高い。しかも墳墓であるから、そこに倭王を埋葬することで、この王墓は祭祀的統合の象徴的存在としても機能することになった。
墳丘の巨大性は、集約的結合を物量的に表示すべく意図され、結集力の大きさを象徴するものであった。測地・測量・土木技術の駆使は、技術的な側面で王墓を巨大化し荘厳化させ、三段にした墳丘構成や葺石・埴輪の配置は装飾されて端正な墳丘形態を実現することで神聖化された威厳を象徴していた。
文献史学の研究者らが指摘するように、前方後円墳には死者の復活と再生の観念が引き継がれていたとすれば、巨大前方後円墳は王権を再生し維持するよりどころと意識された可能性がある。死後の霊が存在するとの観念が成立していたとすれば、王権を守護する祖霊の住処とみなされた可能性がある。しかし墳丘の完成後に改修工事などの手だてが講じられた形跡はほとんど認められないことから、箸墓古墳の墳丘上で継続的に祭祀行為や改修工事がおこなわれた可能性は低い。このことは、大王の生前からの築造地の選定、築造工事、墳丘の完成までが一連の祭祀的行為として意図され、埋葬の終了をもって前方後円墳祭祀が完了したことをしめしている。以後は墳丘内部への立ち入りが忌避され、文字どおりの聖域となった可能性がある。祭祀行為の対象は、ただちに次に共立された大王の巨大前方後円墳築造へと移管され、その継続と反復が巨大前方後円墳文化として重要視したとみるべきである。大和王権を支えた地域集団も、大和王権との協調体制を誇示するために、大王を中心とした巨大前方後円墳文化を重要視したとみるべきである。
巨大化した前方後円墳は政治的統合の記念物
畿内の大和王権の存在は優越した巨大前方後円墳の存在で示されている。倭国を構成する諸地域の集団の首長にとって、列島としての協調行動に参加するにあたっては、倭王権の優越性を認め、巨大前方後円墳文化を受け入れなければならなかった。その時点での巨大前方後円墳文化とは、地域集団としての大首長を共立し、地域勢力の象徴としての前方後円墳を作ることであり、それには畿内政権より技術導入した前方後円墳を作ることであり、巨大性や埴輪などの装飾品については、秩序だった規制があった。それとともに産物の納入や労務の提供、軍事力の派遣などもあったと想定される。見返りとしては朝鮮半島からの鉄資源の確保や先進文化の導入、さらに先進文化を身に着けた渡来人の招致もあったと想定される。このような協調関係の実現が相互の合意を背景にして、前方後円墳の築造で始まり政治的統合を示していることは間違いのないところである。
巨大前方後円墳の誕生にあたって協調行動をとった形跡が確認される諸地域の地理的位置関係をみると、それは北部九州・山陰・瀬戸内中部北岸と東部両岸の諸地域である。いずれも西日本一帯の沿岸部にあたり、弥生時代以来,朝鮮半島や大陸との交流が活発であった可能性を有する地帯である。これら諸地域において多面的かつ広域的流通の進展のもとに成長しつつあった諸勢力が、連携して協調行動をとる必要性が生じたとすれば、それは海外で生起した政治情勢への対処といった、列島外部で生起した要因が考えられる。
おわりに
倭国の古墳時代に始まった巨大前方墳文化の営みは、観念的統合の記念物であり、政治的統合の記念物である。卑弥呼が共立されてから始まった巨大前方墳文化には、倭国王として宗教的威厳の高まりと行政的能力の発揚が感じられる。
前方後円墳の起源『ウイキペヂア(Wikipedia)』
2世紀末に大和地方の纒向(現・奈良県桜井市)に巨大都市が出現し、纒向型前方後円墳が築造される。3世紀前半には一つの画期として最古の前方後円墳とされる箸墓古墳が築造される。これをもって古墳時代の始まりとする。その後日本各地に同じ形の墳墓が築造されていった。
大和政権の勢力下にある日本列島の諸地域(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、これまでに様々な仮説が唱えられている。
最もよく知られているものは、弥生時代の墳丘墓(弥生墳丘墓)から独自に発展したものであるという学説である。この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)で祭祀などが行われ、その後この部分が墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として大型化し円墳と一体化したと考えられる。
それに対して、各地方政権の墳墓の糾合によるという説もある。例えば「形」は播磨の前方後円型墳墓から、「葺石」は古代出雲政権の四隅突出型墳丘墓から、というように、弥生時代に作られていた各地方政権の墳墓の諸要素を糾合して、大和政権が前方後円墳を考案したという。

箸墓古墳

北條芳隆 2000『古墳時代像を見直す』
「前方後円墳と倭王権」p123
巨大化した前方後円墳は観念的統合の記念物
奈良盆地に誕生した巨大前方後円墳を象徴するものは,その巨大性と周辺諸地域の祭祀伝統の統合である。つまり巨大前方後円墳とは,多大な労働力の結集と,諸地域の祭祀的伝統の融合との2側面によって表現された宗教的建造物であり,これら2側面を可視化した倭国王の埋葬地である。
この墳墓にあらわれた諸要素を復原的にみれば,各地で生起した葬送祭の集約と再構成であり,多大な労働力の投下であり,それ以前にはみられない水準の新規測地・測量・土木技術の駆使であったということになる。そこに集約的結合と結集力の両側面がみられる以上,巨大前方後円墳誕生の意義はあきらかである。すなわち観念的な側面における列島各地の祭祀的伝統の統合がはじめて実現したとみるべきであろうし,列島規模の結集を象徴する産物として意図された可能性は高い。しかも墳墓であるから,そこに倭王を埋葬することで,この王墓は祭祀的統合の象徴的存在としても機能することになった。
墳丘の巨大性は,このような集約的結合を物量的に表示すべく意図され,結集力の大きさを象徴するものとして, とりわけ重要視されたものと思われる。測地・測量・土木技術の駆使は,技術的な側面で王墓を巨大化し荘厳化させる意図を支えるとともに,端正な墳丘形態を実現することで,神聖化に一役かったであろう。
前方部を採用し, くびれ部の幅を従来型の2倍程度に拡大して強調したのは,それが墳丘形態にもとづく秩序だての頂点として象徴化されつつあったことを背景としており,いわば当然の帰結であった。主丘部に方形が採用されなかったのは,主に中部・東部瀬戸内地域で円形を方形の上位におく序列化がはじまっていたからであり,こうした動向との整合性をもたせたからにはかならない。
仮にこの時点で死者の復活と再生の観念がひきつがれていたとすれば,巨大前方後円墳は王権を再生し維持するよりどころと意識された可能性があろうし,死後の霊が存在するとの観念が成立していたとすれば,王権を守護する祖霊の住処とみなされた可能性もある。死生観との因呆関係はかならずしもあきらかではないため,あるいは広瀬和雄氏が主張するように「カミ」概念を別途設定し,王権の守護が本意であったと表記するほうが適切かもしれない。
いずれのばあいであっても,ここで注意しておきたいことは,墳丘の完成後に改修工事などの手だてが講じられた形跡はほとんど認められないことである。宮内庁による表採品によってうかがうかぎり,箸墓古墳の墳丘上で継続的に祭祀行為や改修工事がおこなわれた可能性は低い。このことは,築造地の選定から築造工事,墳丘の完成までが一連の祭祀的行為として意図され,埋葬の終了をもって前方後円墳祭祀はおおむね完了したことをしめしている。以後は墳丘内部への立ち入りが忌避される,文字どおりの聖域と化した可能性がある。祭祀行為の対象は,ただちに次の巨大前方後円墳築造へと移管され,その継続と反復が重要視されたとみるべきであろう。
巨大化した前方後円墳は政治的統合の記念物
では巨大前方後円墳誕生の背後に推定される政治的側面についてはどのように理解すべきであろうか。上記のような宗教的・観念的な統合が,従来的な意味での政治的統合(特定勢力による列島規模での再生産秩序の統御,支配権の確立)を背景にしたとは決していえない。このことは,前方後円墳を構成する諸要素において,他地域よりも優勢で中核的な役割を呆たした勢力の存在を同定できないことからみてあきらかである。個別勢力主導型の統制というよりも,協調といった側面が濃厚にしめされているとみるべきである。このような諸勢力の協調関係の実現が,相互の合意を背景にしていることも間違いのないところであろう。したがって,このばあいの政治的な背景を考察する際のキーワードは,協調と合意といった2側面に収銀される。しかもそれは個別地域勢力の再生産構造を維持し,補強するために不可欠の合意であり協調行動であったとみるべきである。
そこで,巨大前方後円墳の誕生にあたって協調行動をとった形跡が確認される諸地域の地理的位置関係をみると,それは北部九州・山陰・瀬戸内中部北岸と東部両岸の諸地域である。いずれも西日本一帯の沿岸部にあたり,弥生時代以来,朝鮮半島や大陸との交流が活発であった可能性を有する地帯である。これら諸地域において多面的かつ広域的流通の進展のもとに成長しつつあった諸勢力が,連携して協調行動をとる必要性が生じたとすれば,それは海外で生起した政治情勢への対処といった,列島外部で生起した要因を考えるのがもっとも自然である。
この時期の列島の外部で生じた政治情勢とは,すなわち後漢工朝の衰退と二国分立状態であり,それに連動した朝鮮半島での政情不安である。必然的に経済的側面の混乱状態も引き起こされたに相違ない。このような事態に直面し,1間別的対処では限界があることを自党した諸勢力は,相互の利害対立を留保してでも相互保証を担保する必要に迫られた。不測の事態にたいして連携行動をとりうる体制を構築しておくことが,言者勢力の生き残りをはかるうえで最善の策であったと推定される。