中国・朝鮮との交流 中国の歴史書によれば、前漢末のころ倭には100余の国があったとされる。 57年には倭の奴国の王が後漢に朝貢している。 107年には倭国王帥升が後漢に朝貢している。 239年には邪馬台国の女王卑弥呼が魏に施設を送っている。 369年には百済から倭王に七支刀が送られている。 391年には倭が百済や加羅(伽耶)地域の国々と結んで新羅を攻撃し、新羅を助ける高句麗の反撃にあっている。 421年から478年にかけて5人の倭王が7回、宋に対して施設を送っている。 このような交流は倭国成立の初めの時期であるが、この交流が倭国の王権成立と古墳文化の発生にどのように寄与したかについて研究する。 3世紀になると、239年、その頃日本列島内で30近くの国々を従えていた邪馬台国の女王卑弥呼が、使者を魏の都に送って朝貢して、皇帝から「親魏倭王」という称号と金印、銅鏡100枚その他を授けられたと記されている。 ここで当時の国際情勢に目を向けよう。当時、中国では魏、蜀、呉の三国が対峙していたが、華北の魏の大尉である司馬懿が238年に遼東地方の半独立政権であつた公孫氏を滅ぼして朝鮮半島の帯方郡を接収するや、卑弥呼を盟主とする倭国は、すぐさま魏と外交関係を築いた。それまで倭など東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと推定されるが、それにかわる新しい東アジア情勢に対応したものである。 239年、卑弥呼は難升米ら帯方郡に遣わし、魏の都である洛陽に送り、明帝から「親魏倭王」に冊封され、金印紫綬を授けられた。 240年、魏は倭に使を遣わして、詔書・印綬を拝仮し、鏡などを下賜した。 243年、倭王は魏に再び遣使し、245年に魏は王統黄瞳を倭に仮授している。 247年、卑弥呼は帯方郡に遣わし、狗奴國との交戦を魏に伝えたが、魏は軍事指揮官を遣わし、詔書・黄瞳(旗)・檄を倭に拝仮している。 卑弥呼としては、鉄製の武器や生産用具、鏡や剣といった威信財が国内では生産できない当時にあってから入手してそれを連合体内のクニに分与したり、冊封を受けて倭国王と認められたり、檄文を下賜されたりすることが連合体における盟主としての地位を維持し、敵対する狗奴国との交戦を有利に進めるために必要だったわけである。 このように魏が倭国を優遇した背景としては、呉の海上支配に対抗するためとの指摘がある。公孫氏滅亡後、呉と倭王権が直接外交関係をもった可能性があり、魏としては狗奴国の背後に呉をみていたということになるのである。 なお、この時に卑弥呼が魏から封じられた「親魏倭王」という称号は、かつての「倭の奴国の王」とは異なり、倭国全体の王であることを認められたことを意味している。 『魏志倭人伝』によると、卑弥呼の死後、俗王としての男王を立てると、大乱がふたたび起こった。そこでふたたび聖王として卑弥呼の宗族である13歳の壱与(もしくは台与か)を女王に立てると、国中が定まったとある。壱与(台与)は魏に遣使したとみえるが、それは西暦250年前後のことでぁったと思われる。また、265年に魏が滅ぶと、あらたに建国した晋に、266年に「倭人」が遣使して貢物を献上している(『晋書』武帝紀)。この266年の「倭人」も台与であつた可能性が高く、三世紀後半には、さきに述べた纏向遺跡と前方後円墳に象徴される倭王権が、すでに成立している。 |
歴史における国家と社会の関係について 現代においても歴史は繰り返すか、歴史は否定されるか、歴史が歪曲されてケースを見受けことがある。歴史は事実だったのか、誰が歪曲したのか、どのような意図があったのかを研究することは現代人の義務であるかとも考えられる。歴史は必ずしもその場で正確に記録されている訳ではなく、後世の後裔が記述したものであることを考えると、編纂者の意図が作用する余地は十分にある。歴史を読み解くには考古学的に先祖の遺物を探し出し、先祖の活動のあかしとすることができるが、これでは人物のなした事績は研究できない。多くの歴史の研究は書籍に書き残されたことを分析し、必要な実像を求めることが歴史研究には必要なことである。 考えてみれば古代史は鎌倉時代から、江戸時代からの近世と多くの研究者、専門家が携わり、さらに明治・昭和と時代の変遷に伴い深堀されています。それが全て日本書紀の研究であり、さらにそのほとんどが古墳時代・飛鳥時代に集中しています。それだけこの時代の古代史はミステリアスで研究が必要とされるものだろうと思われます。従ってこの分野にアマチュアの歴史家が挑むとすれば、多くの資料を読み込み理解し整理し、多くの研究者の事績を調べあげ、その差異を明らかにせねばなりません。 古代倭国に王権と呼ばれる権力や政治機構は、いつ頃から、どのような経緯で発生したのか。王権をどう考えるかにもよるが、王権の発生が倭国の誕生と考えるなら、考古学的には三世紀とされている。当然のことながら、当時には倭国という言葉もなく、互いに自らを何と呼び合っていたかもわからない。王権が発生するまでには、社会構造の構築があり、民族意識の高揚があり、東アジアの政治世界の一員としての外交もあったはずであるが、すべてが謎であり考古学により探求するしかないとも考えられる。倭国の王権は大王(天皇)と称されていたが、古代国家の形成では大王の力のみで展開されたものではなく、豪族たちの協力があり、彼らとの連合体制、合議制政治体制もあったと考えられる。豪族たちの多くは大和地域にて活動し、大和王権に協力しているが、全国支配のためには地方の豪族たちの協力あるいは支配があったはずである。 |