東本願寺、西本願寺、東寺
東本願寺、西本願寺、東寺
京都御所__________________________________ 東本願寺、西本願寺、東寺____________________
東本願寺
2024年10月24日
京都旅行最終日はカプセルホテルのチェックアウトが12:00でしたので荷物は京都駅のロッカーに預けて午後に東本願寺、西本願寺、東寺と見学しました。
東本願寺は浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、一般に「東本願寺」と呼ばれている。御影堂(ごえいどう)には宗祖・親鸞聖人の御真影(ごしんねい)を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影(お姿をそのまま写して作られた木像)を安置する廟堂(びょうどう)が建てられました。これが東本願寺の始まりです。境内建物は江戸時代に4度の火災に遭い焼失しましたが、現在の建物は、全国のご門徒のご懇念(こんねん)により、明治時代の再建事業によって完成したものです。2011年の宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌(ごえんき)の特別記念事業として大規模な修復がなされ、御影堂・阿弥陀堂・御影堂門は国の重要文化財に指定されています。墓所は大谷祖廟である。
阿弥陀堂門
阿弥陀堂
御影堂
西本願寺
2024年10月24日
西本願寺は、京都市下京区本願寺門前町にある浄土真宗本願寺派の本山の寺院。山号は龍谷山(りゅうこくざん)。本尊は阿弥陀如来。正式名称は龍谷山本願寺、宗教法人としての名称は本願寺である。本願寺住職は浄土真宗本願寺派門主を兼務する。真宗大谷派の本山である東本願寺(正式名称「真宗本廟」)と区別するため、両派の本山は通称で呼ばれることが多い。京都市民からはお西さんの愛称でも親しまれている。
慶長7年(1602年)、後陽成天皇の勅許を背景に徳川家康から、豊臣秀吉の命により本願寺の寺内で隠居所(御影堂と阿弥陀堂もあり)を設けて、北方に隠居させられていた教如(顕如の長男)へ烏丸七条に寺領が寄進された。これにより本願寺は正式に准如(顕如の三男)の西(本願寺派)と、新たに分派してできた教如の東(大谷派)に分立した。この時、江戸幕府内では本願寺派法主の准如が関ヶ原の戦いにおいて西軍に味方したことから、准如に代わり教如を本願寺派法主にしようとの考えもあったが、浄土真宗の力を削ぐのに有効との考えから結局分立させることになった。
分立当初は准如の堀川六条の「本願寺」は「本願寺」「六条門跡」「本門」「にしもんぜき」などと呼ばれ、教如の烏丸七条の「本願寺」は「信淨院(教如の院号)本願寺」「本願寺隠居」「七条本願寺」「信門(「信淨院の門跡」の意)」「ひがしもんぜき」などと呼ばれた。便宜上、堀川六条の本願寺の東側にある烏丸七条の本願寺が「東本願寺」と通称されたため、相対的に堀川六条の本願寺も「西本願寺」と通称されるようになった。境内(史跡)に一歩入っただけで御影堂、阿弥陀堂(本堂)(ともに国宝)の威容に圧倒される。能舞台として日本最古の北能舞台、唐門、書院、黒書院、飛雲閣(いずれも国宝)の建造物は、華麗な桃山文化の粋を伝えている。大書院庭園(虎渓之庭)は特別名勝、滴翠園は名勝に指定。墓所は大谷本廟である。
東寺
2024年10月24日
東寺は、京都市南区九条町にある、東寺真言宗総本山の日本の仏教寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。真言宗の根本道場であり、教王護国寺(きょうおうごこくじ)とも呼ばれる。
創建由来は、平安京鎮護のための朝廷の官寺として建立が始められた後、嵯峨天皇より空海(弘法大師)に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。このため国宝や重要文化財を含む文化財が多数残る。明治維新まで、東寺の長官である4人の東寺長者は真言宗の最高位であり、中でも長者の筆頭である東寺一長者は律令制における仏教界の首座である法務も兼任する慣例だった。中世以降の東寺は弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。1934年(昭和9年)に国の史跡に指定、1994年(平成6年)12月には「古都京都の文化財」の構成資産として世界文化遺産の一つに登録された。