本論は、四世紀末から五世紀前半の大阪平野の大王墓級の巨大前方後円墳は、中ツ山古墳(全長286m)→上石津ミサンザイ古墳(全長365m)→誉田御廟山古墳(全長420m)→大仙陵古墳(全長486m)と編年することが可能であり、河内の古市↓百舌鳥↓古市↓百舌鳥というように、両古墳群の間で交互に王墓が営まれている可能性が大きいことに言及している。これは考古学者の研究成果として認められている。 本論では大和王権の形成経緯を巨大前方後円墳が造られたことから説明し、大和王権の機内での交替を大王墓の移動から説明している。また、巨大前方後円墳が記・紀に記載される、どの天皇が被葬者であるかを論じていていないが、大王を共立した、古墳群を形成した集団が畿内で移動していたことを説明している。 |