はじめに
吉備で5世紀前半に造山古墳(全長350m、全国4位)、続いて作山古墳(全長282m、全国10位)が作られていたころ、群馬県の上毛野では5世紀中葉とされる太田天神山古墳(全長210m、全国26位、近畿を除くと3位)が作られています。時を同じくして近畿河内の古市では誉田御廟山古墳(全長420m、全国2位)、続いて百舌鳥では大仙陵古墳(全長486m、日本最大にして世界最大級)が作られている。5世紀前半から中葉にかけて、ほぼ時を同じくして大きな前方後円墳が近畿と他地域で築造されていることには興味がある。 太田天神山古墳同時期の上毛野の古墳中では群を抜いており、太田の勢力が前橋・高崎の勢力を呑み込む形で発展したことを物語っている。また同古墳の石棺には長持形石棺が用いられており、畿内の石工による築造が明らかである。この長持形石棺は畿内王者特有のもので、毛野地域が大きな地域連合体に発展したことが示唆されるとともに、太田天神山古墳の被葬者はヤマト王権から地位を保証されていたと推測される。
造山古墳・作山古墳は吉備という範囲で見た場合、規模が突出しており、地域を中心とした強大なまとまりを象徴している。また作り方は大和王権の墳丘平面型スタイルであり、埴輪製作法なども類似しており、誉田御廟山古墳の被葬者と造山古墳の被葬者の密接な関係を持つことで、それぞれの位置を補完しあう構造になっている。
倭国王と地域の首長連合の同盟
この時期、広開土王碑に記される391年からの高句麗と倭との交戦があり、その高句麗の朝鮮半島南下が緊張感を高めていた。このため日本列島が内部的でまとまり、対外的にも大きく成長、飛躍がもとめられた。これは、高句麗の南下という東アジアの国際情勢の変化にともなう、朝鮮半島での戦争遂行のためには、吉備や上毛野など有力な政治勢力の協力が不可欠になったのである。こうした特殊な事情があったにせよ、造山古墳や太田天神山古墳のあり方は、この時期の倭国王と、その配下の各地の地域的政治勢力との関係が、支配―被支配といった関係ではなく、同盟ないし連合と表現せざるをえない関係であったことを示すものとして重要だと思われる。こうした造山古墳の被葬者や、太田天神山古墳の被葬者は、吉備や上毛野の中の一政治勢力の首長であったわけではなく、吉備政権ともいうべき吉備の首長連合、あるいは上毛野政権ともよぶべき上毛野の首長連合の、盟主の地位にある人物であったと想定さる。
前方後円墳文化
前方後円墳文化ともいわれる政治連合力の権威と財力・結団力の上下関係を象徴するのが首長連合で作り上げる前方後円墳の大きさであったとすれば、地域の大首長の求めに応じて巨大化を認めたことが伺われる。さすれば大和王権は、それら地域首長連合をはるかに凌駕するものを作らざるを得なくなり、また近畿の大首長たちには、それを達成する財力もあり、組織力もあったと想定される。
しかし、もう一つの前方後円墳文化である大首長が亡くなると、次に共立された大首長は、新たに巨大な前方後円墳を作らねばならなかった。それには財力と労働力が必要であった。上毛野では太田天神山古墳のような、巨大なものは造られておらず、先に連合に参加した首長たちは次の大首長の共立をしなかったと想定される。吉備においても同様で5世紀後半になって場所が移動して岡山県東南部の備前に雨宮山古墳(全長206m)が作られるが、その後は途絶えている。しかし畿内には少し規模が小さくはなるが巨大な前方後円墳が面々と造り続けられている。これは大和王権の存在を象徴するとともに、近畿の豪族連合の結束力・財力・労働力が際立っていたことを示していることになる。
首長連合の身分秩序
造山古墳や太田天神山古墳よりは後の時代になるが、中国南朝の宋の歴史を書いた『宋書』によると、438年、倭王珍は、宋.に使者を送っている。この時、珍は安東大将軍号を求めて安東将軍号をあたえられ、また倭・隋ら一三人に、平西、征虜、冠軍、輔国将軍号を賜るよう求め、これを許されている。この時、珍が将軍号を求めた倭・隋ら一三人というのは、大和政権という首長連合の身分秩序の体系から考えると、当然大型の前方後円墳に葬られることになる、近畿をはじめとする各地の有力首長層であったことは疑いない。したがってその中には当然、吉備や上毛野の大首長もふくまれていたものと思われる。 このように、五世紀の初頭から前半の段階では、ヤマト政権の盟主である王と、各地の政治連合の大首長の関係は、基本的には同盟関係にあったものと考えることができる。そのことを示すもっとも顕著な例が、近畿の倭国王と吉備の大首長墓がほぼ同形同大につくられていることになる。
倭の五王『ウイキペヂア(Wikipedia)』
中国六朝(南朝六代:呉、晋、宋、斉、梁、陳)の第三王朝である宋帝国の正史『宋書』(513年ごろ完成)には、宋代(420-479)を通じて倭の五王の遣宋使が貢物を持って参上し、宋の冊封体制下に入って官爵を求めたことが記されている。
倭の五王の遣宋使の目的は、中国の先進的な文明を摂取すると共に、中国皇帝の威光を借りることによって当時の倭(ヤマト王権)にまつろわぬ諸豪族を抑え、国内の支配を安定させる意図があったと推測される。倭王は自身のみならず臣下の豪族にまで官爵を望んでおり、このことから当時のヤマト王権の支配力は決して超越的なものではなく、まだ脆弱だったと見る向きもある。438年の遣使では、「珍」が「隋」ら13人に「平西・征虜・冠軍・輔国将軍」の除正を求めているが、このとき「珍」が得た「安東将軍」は宋の将軍表の中では「平西将軍」より一階高い位でしかなく、倭王の倭国内における地位は盟主的な存在であった可能性が窺える。451年にも、やはり倭済が23人に軍郡(将軍号・郡太守号)の授与を申請している。

井出二子山古墳

白石太一郎 2009『考古学と古代史のあいだ』
「記・紀の王統譜は信じられるか」p142
ヤマト王権と地域政権
群馬県域は、かつて上毛野(上野)とよばれていました。おそらくこの上毛野の大首長の死にさいして、近畿の王や有力首長層の石棺を作っていた工人が東国に派遣され、太田天神山古墳の被葬者のための長持形石棺をつくったのでしょう。お富士山古墳の石棺も、おそらくこの時につくられたものと思われます。このこともまた、この時点では、近畿の王と東国の上毛野の大首長とは、同盟と表現するのが適当な関係にあったことを示すものにほかならないと思います。
造山古墳や太田天神山古墳よりは一世代ほどあとの時代になりますが、中国南朝の宋の歴史を書いた『宋書』によりますと、四三八年、倭王珍(反正天皇説が有力)は、宋.に使者を送ります。この時、珍は安東大将軍号を求めて安東将軍号をあたえられ、また倭隋ら一三人に、平西、征虜、冠軍、輔国将軍号を賜るよう求め、これを許されています。この時、珍が将軍号を求めた倭隋ら一二人というのは、ヤマト政権という首長連合の身分秩序の体系から考えると、当然大型の前方後円墳に葬られることになる、近畿をはじめとする各地の有力首長層であったことは疑いないでしょう。したがってその中には当然、吉備や上毛野の大首長もふくまれていたものと思われます。
このように、五世紀の初頭から前半の段階では、ヤマト政権の盟主である王と、各地の政治連合の大首長の関係は、基本的には同盟関係にあったものと考えることができます。そのことを示すもっとも顕著な例が、近畿の倭国王と吉備の大首長墓がほぼ同形同大につくられていることでしよう。
古墳の出現期の三世紀中葉すぎから後半の段階では、連合の盟主であるヤマトの王墓である箸墓古墳(墳丘長二八〇メートル)に対して、連合にくわわった各地の地域連合のなかでもっとも有力であった吉備の首長墓である浦間茶臼山古墳(一四〇メートル)の墳丘規模が、ちょうど三分の一であったのに対し、五世紀はじめの段階では、それが同じ大きさになっていることが注目されます。
これは、さきにもふれた高句麗の南下という東アジアの国際情勢の変化にともなう、朝鮮半島での戦争遂行のためには、吉備や上毛野など有力な政治勢力の協力が不可欠であったためでしょう。こうした特殊な事情があったにせよ、造山古墳や太田天神山古墳のあり方は、この時期の倭国王と、その配下の各地の地域的政治勢力との関係が、支配―被支配といった関係ではなく、同盟ないし連合と表現せざるをえない関係であったことを示すものとして重要だと思います。
こうした造山古墳の被葬者や、太田天神山古墳の被葬者は、吉備や上毛野の中の一政治勢力の首長であったわけではありません。それはまさに、吉備政権ともいうべき吉備の首長連合、あるいは上毛野政権ともよぶべき上毛野の首長連合の、盟主の地位にある人物であったと想定されます。
吉備地域では五世紀はじめころの造山古墳のあと、五世紀前半には岡山県総社市作山古墳(墳丘長二八六メートル)が、五世紀中葉ころには、岡山県山陽町両宮山古墳(一九二メートル)などの巨大古墳が引きつづき造営されます。それらが造山古墳と同じように吉備政権の盟主の墓であることは、それらの古墳の規模からも疑いないでしよう。
きわめて興味深いことは、これらのうち造山古墳と作山古墳が、ともにのちの備中の地域に造営されているのに対し、両宮山古墳はのちの備前の地域に営まれていることです。これは、近畿の王権の場合と同じように、吉備連合の盟主権は、この連合にくわわるいくつかの政治勢力の間を移動したことを物語るものにほかなりません。

上毛野でも太田天神山古墳をはじめとして、高崎市浅間山古墳(墳丘長一七三メートル)、太田市宝泉茶臼山古墳(一六五メートル)、藤岡市白石稲荷山古墳(約一六五メートル)など、四世紀後半から五世紀前半には、 一地域首長墓とは考えがたい大規模な前方後円墳が、上毛野の各地に交互に造営されることが知られています。それらが、上毛野の大首長墓であり、その地位には上毛野各地の政治勢力の首長が交替で就いたことが想定されるのです。
こうした地域政権の構造は、近畿の内部でも認められます。奈良盆地西南部の葛城地域では、四世紀後半から五世紀中葉ころまでの間、墳丘長二〇〇メートル前後の大型前方後円墳が、葛城各地の古墳群に一、二基ずつ、それぞれ時期をことにして営まれます。 川西町島の山古墳(一九〇メートル)、広陵町巣山古墳(三二〇メートル)、大和高田市の築山古墳(二一〇メートル)、御所市室宮山古墳(二四〇メートル)、広陵町新木山古墳(二〇〇メートル)、河合町川合大塚山古墳(一九五メートル)など、六基の古墳が、おそらくこの順に葛城の各地に営まれます。
それらが葛城政権ともいうべき、葛城地域の政治集団の連合体の盟主の古墳であることは疑いなく、その地位が葛城各地の政治集団の間を移動していることが読みとれます。
文献史料には、葛城襲津彦など葛城氏の族長の名前がみられますが、こうした文献にみられる葛城氏の実態は、こうした地域的な首長連合にほかならないと思われます。
このように、葛城地域のいくつかの地域的政治集団が、連合して葛城政権をつくり、また葛城政権のような近畿中央部の地域的な政治連合が、いくつか連合して畿内政権(ヤマト王権)を構成する。さらにこうした畿内政権や吉備政権、あるいは上毛野政権などが連合して連合政権としてのヤマト政権を構成する。こうした重層的な構造の政治連合が、ヤマト政権の実態であったと考えられるのです。